ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

現代の狂人が生まれる根本原理。

現代の狂人が生まれる根本原理。

唯物論と観念論の7千年闘争は、160年前ぐらいに観念論が敗北して、決着がついている。



哲学は、思考をすすめるにあたって人間の意識観念を優位に置くか、世界と人間の物質を優位に置くかで、哲学二分する哲学の根本問題といわれるものがある。

(この点が多くの人には、何を言ってるのか意味がわからない、哲学の最初の難問となっていますので、少し説明します。
多少の間違いを含みますが、あえて分り易く簡単に話せば、私達が考えを始めるとき、その考えは何処から生まれるのかとか、その考えは正しいのか、間違いではないのか、などと考えると、それは誰れそれ先生の考えを勉強したから、それを理解できる知識があったので、考えることができるのだ。そう考えるのを観念論といいます。

それに対して、頭脳という物体があるから、その脳の高度な有機的能動的活動によって、考えるという活動がなりたっているのだ。考えることができるのだと考えるのが唯物論と言われる哲学になります。

あるいはまた、原始的猿から人間になるまでに考え始めたときに、目の前に諸々の物(物質とその世界)があることでそれを題材にして、思考活動が始まったのだというのが唯物論といいます。
反対にいくら諸々の物質(世界)があっても、それと気付いたり意識したり認識できなければ、思考活動はできない。という具合に、先に意識や観念があるからこそ、対象を知り、思考ができるのだ(意識世界)という観念論哲学があります。
ようは、そのようなときに物質を優先的に位置づけるのが唯物論というものになります。その反対に意識や観念などを優先的に位置づけるのが、観念論というものになります。)


それは例えば
「人間のわたしとは一体何なのか。世界がなければ、本当のあなたを知ることはできない。
世界にあなたのすべてを投影している。世界はあなたを教えてくれる師であり鏡だ。」
という文章がある。


そのなかで「世界にあなたのすべてを投影している。」というところが
唯物論では「世界が、あなたの全てに投影されている。」となります。
またそれを承認した上で「世界にあなたのすべてを投影している。」とも応えることができます。


過去に生きていた個人や現代に生きている個人だとか、全ての個人の意識とは別にある世界は、誰がどのように考えても、それとはまったく関係なく独自の原理で動いて、物質世界が存在しています。

それは超先端物理学者がどのように推論(意識し思考・観念)しようが、それとはまったく関係しないで歴然として存在します。


だから賢い人はその分だけ、世界などがその意識に反映されて、その賢さの限度以上には反映されません。
(*)凡人はそれなりの凡人認識の凡人スペース分だけ間違いだらけで脳に(意識)反映されます。

このような個人別能力の偏りが「個性」であって、様々な評価基準項目がある分の各項目も各自の分だけの固有の優劣が違っていて、それら全体で個性となっている。
それが「ワタクシ性・私性」です。


つまり自分を知りたかったら、自分の家族、日本の社会、国、他の国々、自然と宇宙の「哲学的意味の世界のこと」を観て、自分(と世界)の偏り(無知)を知らないとわかりません。

つまり自分固有の無知を知るということは、対象の正解等を知らないければ自分が何を知らなかったのかは理解されず、自分の無知は訂正されません。
そこで無数の知と、その無知があること(その原理)を知った賢人が「無知の知」を発見したのです。

この知る(認識論・反映論・観念論・真理論)思惟活動を正しく行うためには、人類全体として、「より正しい歴史学の建設」が不可欠であるあることを知った古代哲学者たちがその研究活動を始め、ヘーゲル精神現象学(様々な意識と精神の現象があるうちの。歴史という意識精神哲学)が古代弁証法を復活させた歴史「変遷」の原理を解明して、さらにそれを唯物論者が学びなおして、史的弁証法唯物論に再編集させ哲学体系にしたのです。

n現代はその上にあります。

よって歴史学の現代的知(*)歴史の大道の流れや筋を解明し、その大きな筋道が進んでいる方向の延長線を想定(観念的意識活動)して科学的論理学的に未来、人間・社会・国・世界各国・世界を証明したのです。

こうして人類の過去・現在・未来が見渡せる知的体系の歴史学が完成できたのです。

これは偉大な発見と発明だったのです。

分かり易くいえば、私達が今現在歩みを進めているのは何処に向かうか事前に知っているから、今歩けるのです。それを知らないで無目的に歩いていて何になります?。

1メートル円上を歩いていて、をの意味を考えてもいいし、考えなくてもいいし、歩きたい人は歩いていればいいのです。他人がとやかく言うべきではありません。親切心で「無駄なことですよ」と教えてあげても、人間は無知だし強情なので、「さも教えてアゲテルという上から目線」だとか「ウルセッ‼このやろう」とぶん殴られても何も抗弁できません。
いらぬお節介なのですから。
犬でも鎖に繋がれて、1メートル円周を一日歩いても平気です。犬の日常ですから、人間だって全ての人間をそのような存在だと訓練すれば、それに慣れます。何十年、何百年も。

人々は日常がそうであるように、歴史を歩きたどり着く目的地を知って、歩くことができるようになったのです。

現代はその歴史の道筋上にあります。

しかし確かに、安倍首相一味のように明治初期「皇軍軍国主義」の円周に戻って、国民は昔のように飼い主の命令に従って「ぐるぐる周りをしろ」と言わんばかりの人もいるのです。それに賛成の人も多くいる事実があります。


話を戻して、さてマルクス歴史学ヘーゲルのような「思想活動による正解等」ではなく、人類の食生活のための生産活動(経済学的物証性)の発展史として生産物の「証拠」を示したので、人類の生産活動が発展を続けるから資本主義・社会主義共産主義の共同体形式(様式)ができてくると過去から未来を示したのです。

それを哲学的、経済学的、歴史学的、制度が変遷する革命論として証拠をあげてるのですから、それ以降の学術界では、これを新しい全体理論証拠を上げて訂正するように研究を進める新理論は生まれません。


(『資本論』も経済学《だけの》の書籍ではありません。哲学書《だけの》ものでもありません、歴史学書《だけの》ものでもありません、革命論の書《だけの》ものでもありません。だから経済学者(他の哲学者・歴史学者・革命論・法学・教育学などの研究者)が読んでも意味がわからない(わかりづらい)のです。


マルクスヘーゲルが示した道を進み、より正しい学研の道を行っているのです。


またヘーゲルは人類観念論を完成させた超人ですが、当時の欧州王侯貴族教界は最初はヘーゲル哲学は神とキリスト教を認めた観念論の偉業だとして讃えていましたが、やがて理解が進みそれが弁証法であり国家が変わるのだと証明していることに気付き始め、一斉に無視するように公認された哲学となりました。
こうして支配階級の敵の学説だと烙印をおされたのです。


それを受け継いだマルクスも王侯貴族教界+資本家階級=支配者階級の敵となりました。ですから資本主義の現代では、世界資本主義が世界司令を出して、ヘーゲルマルクスは無視と攻撃を受けることになったのです。
しかしその命令は無力で、仲間内の社会国民]にしか影響しない愚痴と決めつけ、洗脳、禁忌となっていて、客観的に存在する人類学術史からするとなんの意味も価値もないものな
のです。
それは馬鹿げた無駄であることも言うに及ばないことなのです。

現代資本主義に奉仕する観念論哲学は、古代から続いてきましたが、フェイルバッハの唯物論ヘーゲル学徒の弁証法)から、より完全にしたマルクス弁証法唯物論によって、観念論は敗北しその息の根を止められれしまい、存在意義をまったく無くされ亡霊化してしまったのです。

しかし意識界には(*)の原理がありますので、哲学の意義価値を知らない人は、虚構空間(自分の観念界)に生きていても気づきません。その活動の一切が無駄であり、その自分が創った物的生産物にしか価値を添加できない、隷従的命(私し性)でしかないことをしりません。
ようは狂人化していても気が付きません。気付いても人間個人の生得的認識障害の無知
と捻くれ強情という性質と性格から、かえって旧来の自分を固持して自己改革をしません。それは建前の号令で「自己改革」を言ってやってるつもりにしているだけです。

こうして狂人が溜まり広がる社会と世界になっているのです。

「自然破壊を食い止めなければならない」「人間自身が行いを改めなければならない」とか今日も新聞や電網で号令号砲が飛び交い反省のこもごもが繰り返されています。
明日も、来年も。


衝動として、アドリブで書いたので間違いがあると思います。後日添削します。2021,11,14