ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

現代人の錯誤と倒錯

現代人の錯誤と倒錯①
まだまだ報道の「内閣支持率」を取り上げ論評している知識人や電網民がいる。
いい加減覚えましょうよ。
みなさんも拡散願います。

電通やマスコミは、情報加工の専門家であり、世論工作と世論誘導のプロです。

情報を加工し宣伝を繰り広げることで、人々(私達のことですよ)を実際行動させて、商品を買わせる実効力と催眠術を持っているのです。

電網でも加工情報や宣伝を何度も拡散されるうちに、人々は「良い商品」や「人気政党」と刷り込まれ、実際に商品を買い、政党を支持させる力(催眠術)があるのです。
心理学を応用した情報戦略を見抜き、それを自覚しましょう。



現代人の錯誤と倒錯②
人々は記憶することが勉強と教育だと洗脳されて錯誤している。

何十年にも渡る記憶優先の教育の結果、全ての人には脳は有るが理性と知性がなくなってしまった。

すでに教育学者も教育委員も教育長校長教師も父母も。理性と知性が失われて、とうとう国民人格が矮小化し国家崩壊の危機を迎えてしまった。

それが事実だから「考える教育と授業の必要」をいい始めたではないか。


現代人の錯誤と倒錯③
国語学者は、国民のすべての考えと行動や自然の一切が言葉で示され、その意味内容によって思考が成り立っていると考える。だから人間と社会を知るのは自分とその学問だという。
政治学者も同じように、社会の行方と決めるのは政治であり、政治学こそ人々の生活と社会と国を知っていると言うに違いない
法律関係者も、教育・経済・歴史・精神科学・心理学なども、自分たちこそが人と社会を一番知っていると錯誤する。
そのような原理からすると、ヒトは全部の学問を学ばなければ、人間とその社会を知ることはできないことになるが、そのようなことは不可能だろう。
国民は各学問に騙されている。



現代人の錯誤と倒錯④
多くの人は、日本は民主主義の国だと洗脳されそう信じている。
しかし社会科学では民主主義は建前であり、実質的なものではないとされる。
確かに3権分立とか言われる原則も、先ごろ検察人事法改正問題で示された様に、3権分立が守られているように演出されていただけだった。
実際は、報道権力(第4の権力と
される)と通貨発行権力の2権が加わり、5権分立でないと民主主義政体とはいえないのだ。
だからこそ民主主義を闘い取らなければならない。



現代人の錯誤と倒錯⑤
ギリシャローマ時代の剣闘場で剣闘士が戦い、敗者を時の支配者が「殺せ」と合図すると、勝者が息の音を止めた。
それを見た観衆は興奮し喝采して楽しんだ。
それがローマ人市民の娯楽であり、剣闘士の戦いの催を数多くやる皇帝こそ支持され、次の市民選挙で勝利して皇帝として選ばれる。

現代の優しい人々は、人殺しゲームやTVや、映画、人殺し推理小説などを楽しんでいる。
その残酷と野蛮を楽しむ思想を現代人の多くが持っている。
優しさと残酷と野蛮性を持っていることの、自覚に乏しい。



現代人の錯誤と倒錯⑥
電網世界にはキリストやマホメッドブッダや賢人たち(資本主義が宣伝している者たちは含まない)の言葉がたくさんある。

しかし現代人は「民主主義」原理を過大視して、電網界のすべての発言と言葉は「同等」だ「表現の自由」だ「公平に扱うべき」と錯誤している。

中学生の言葉と発言と賢人や「聖人」のそれを同一線上にならべ、賢人や聖人の言葉を見分けられない。

賢人や聖人の言葉を見分けられる知識(知性や理性)が無いのだから、それを見ても読んでも分からないのだ。



現代人の倒錯と錯誤⑦
人は一歩あゆみを進めるとき、あらかじめ目的地が何処か、どんな所ろか理解していている。
目的がないような散歩でさへ、自分の家に戻ることを知っている。

それと同じように、人間の歴史が一歩あゆみを進めるとき、人類の目的地が何処か、どんな所か知らないで歩いてはいない。
過去と現代とを線で結び、その延長線の方向に進むことを理解している。

目的地を知らないのは貴方と多くの現代人だけだ。
多くの知識人はどう思い、どう発言しているだろうか。目的地を知っているとは思えない。

よくもよくも人生を歩んでいるものだ。




現代人の錯誤と倒錯⑧
真理は一つだ。
真理を述べた哲学も一つだ。
そこに不十分な点が残っていたとしても、真理からかけ離れ真理を求めない数多の「哲学」とは次元が違う。

大学の真理探求とは別な哲学は、現代からギリシャ時代まで遡った全部の哲学を勉強しても、無駄になるだけだろう。
自分の頭で考えても、それに気付かない思考と哲学とはなんだろうか?
また哲学を教える学者は、真理を求めないで数多の哲学の知識を蓄えている。
それはそれで意味有ることだが、しかしそれは哲学することとは別なことで、彼らは哲学者ではない。

哲学を学ぶ学生は、その錯誤と倒錯の「哲学」の入り口に立たせられる。肝心ことを学ばない一般教養は教養にもならないだろう。