ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

不倫問題の発生原理と構造、その解決の道

不倫問題の発生原理と構造、その解決の道を社会科学的に検討したい。


不倫問題の発生原理と構造、その解決の道を社会科学する。

私はFacebookの「不倫をしたい男女」というグループに参加しています。

「不倫は違法ではないか」前文

そこに「不倫は違法ではないか」という投稿があり、お決まりの賛否の議論がおこっているので、社会科学的な意見を述べて、人間の実生活と男女と夫婦の愛や幸せ肉体関係の問題にも、本当の科学的社会学が現代問題に活用しうるのか挑戦してみる事にしました。

マルクスの教え

マルクスが教えるのは、「私は人間に関係する問題の一切に興味があり、学ぼうと考える」という主旨の言葉にあります。
私もその姿勢に倣い、常にそのように取り組もうと考えています。
そういっても基本的にいってですが。
鹿も、まあ、ただの野次馬根性と言うのが本当のことかもしれませんが。 そこのFBグループに参加するのには、もしかして私の奥底の隠された本心があるのかもしれません。
フリードリッヒ・フォン・シラー
古代ギリシア時代においては、詩歌が、既知と淫らな情を通じることもなく、また黙想が、詭弁によって辱めを受けることもなかったのです。官能も精神も、それぞれに独自の方法で真理を尊敬していたので、必要に応じて両者は、互いの行事を交換することができたのです。-美的書簡-

「不倫は違法ではないか」ということ本論


以下がその意見です。
人々は建前で、不倫は法律違反だという方が多くいますが、そのように言うみなさんの、法の考え方に間違いがあるように思います。 さらにそこに関係して、人と、人間の歴史を理解してない問題もあるように思えます。

法というもの

人に関係して、法という世界があります。
この法というものについて、多くの方にはこの世の中には、法律の文章に書けない「法」と言うものが2つあるのをご存知ないように思えます。
この2つは、文章で書かれた法律(憲法とか)より強い法としてあります。 また如何なる国の法より、強い強制力を持っています。

その一つは、科学や自然の法です。
1+1=2とか万有引力の法則とかの、個人の好き嫌いとか私の考え方と違う、私は認めない、とかが通用しない、文章の法律以上に強く人々と社会(自然)に作用している絶対的な摂理です。これを守らない人間は生き残れませんし、人間社会は安定しません。

もう一つは、絶対的摂理に逆らえないから、各民族や国だとかの慣習法(錯誤のない歴史的実定法、歴史的自然法)といって、昔からどの国や民族などに根付いている習慣的なもので、あまりにも日常的普通なことになっていて、特段気にすることがない「決まりごと」となっているものです。

例えば「朝起きたら顔を洗う」だとかの生活習慣的な決まりごとのたぐいです。
あるいは冬に裸でいると風邪をひくので服をきましょう、とかの生活的な行為や活動を慣習として、人々を規制し縛っているようなもので、沢山の決まり事という法がありこれを破ったらひどい目にあいます。

そこのグループのこことしていえば、「一人生活は体の毒だ」などと言う教えがあります。そこに含まれる人間と、男女、性生活、健康などの生活的な行為と活動の意味が一つになったことわざとしてあるわけです。
農作業などの決まりごともこれに由来します。

(この2つを含めて、錯誤のない自然法といえるものです。つまり憲法だとかその下に配される沢山の法律より上位にあり、人間と社会やを拘束しているものです。)

実は、この2つの法律文章にかけない絶対的な法が、不倫を起こし、起こさせる原因なのではないか、と、私は思うのです。

というのも2つの法は絶対的なものですから、不倫は、時代を遡ってもどの国でも民族を見ても、不倫現象があり、共通な自然法(人間が作り、歴史的に自然と決まってきた社会的禁忌の法)となって、人々を規制しているのです。

法文や罰金だとかでは無力で、不倫現象を無くすことはできないのです。

しかし無くせないのですが、かといって不倫を野放しに認めていたら、通常の生活や社会に混乱が生まれることになりますので、法文ができる歴史の以前から、社会的禁忌とされているのです。(しかし禁忌がない例外の時代が永くありました)

さてこうして法文章に書けないものと、法文として書いてある法も加えた3つの法の主要原理は、「人間が生きる上で理にかなった決まりごと」ということになり、この3の法的規定が私達と社会を支配して私達の行為や行動などを規制し拘束しているといえるでしょう。

不倫は人間が生きる上で理にかなっているのか?

人間には、男女ともに性欲があり、これを大切にしなければ子孫を残せず人類は絶滅してしまいます。
また性欲は、生殖以外に男女の心身を一つにする持続的行為として、重要な本能要求となっていて、子孫を残す生殖目的いがいの性と愛の活動を行なわさせる要因ともなっています。

不倫も上に示した2つの自然法が支配している領域のことでもあり、あるいはそれらは人間の摂理であって、性愛や幸せを求める本性を無視しては、さらにまた刑罰で抑制(奴隷のように強制)しても、加えて倫理道徳などで社会的規範として自制させても、それでも人間も社会も成り立って行きません。

実際に、多くの民族では子孫継続とか治安の安定だとかの目的で、例外的な祭事や習俗として非道徳的不倫的な性交渉形式が残っています。

なぜそのように残っているかといえば、例えばウイルスの蔓延だとか、農作物の凶作だとかが起きて、食料難や飢餓だとか、部族人口が激減したとか男女比や年齢バランスが極端に違ってしまったとか、そのような非常事態に社会的ルールや禁忌を柔軟に取り払うことで、子孫を継続すさせることができて来たからです。

したがって不倫的非道徳的とされる性愛形式は、重要な原理でもあったし、まさしく文章に書かれた法より、人間を強く規制し拘束し、あるいは促し存続させてきた法でもあったのです。

不倫は人間が生きる上で理にかなった摂理があって、自然に男女を引きつけ合い、結び合いつつも、一歩間違って不倫ともなるのです。

しかし、「一歩間違って不倫となる」といっても、不倫を起こす原因は、生理と本能の原理があるほかに、社会的な、また家庭的な、さらに個人的な要因もありますので、当事者各自それらの要因の違いがありつつも、その一切に共通してある人間の摂理の方が強く支配しているわけです。

ですから世の中には不倫はスケベな男女が起こすものだ、などという意見もあるのですが、たとえそのような性欲の強弱の個人差があっても、また不倫の理由や原因など恋人同士の数の分の要因があっても、この性と愛の原理は共通してあり、その根本的原理に社会的、家庭的、個人的な要因が重なってあるのでしよう。


どうすればいいのだ!結論

結論をいえば、不倫問題をみなさんが考えるときは、不倫現象にはそのような根本的な原理と関係性の構造があることを、頭の片隅において考えてみてはいかがでしょう。

また、私たちは人間にはそのような摂理があることをしっかりと、また正しく受け止めて、「男女夫婦が一つになって、愛と幸せを求めているのだ」という鉄則を握って離さないことが大切だ、という結論になるでしょう。
二人一緒に鉄則を守る意思を忘れないよう目的的意識的に注意すれば、不倫は起こらないはずなのです

家族愛や性愛を守り、家庭を守るためには

しかし現実の恋人や男女夫婦関係は、社会の中で日常生活を送っているのですから、政治問題と、そこから生まれる様々な社会不条理と、さらにそこから発生する、様々な困難に直面せざるを得ません。

低賃金だとか、派遣労働だとか、神経をすり減らす過密労働とか、長時間労働とかで苦労します。
そうしてその経済的原因から、つまり金がないことから、衣食住に関係する一切の不足や貧相や貧困とかになり、育児★と教育問題★の文化的問題★など、生活苦によって★四苦八苦することになり、男女夫婦関係と生活が振り回されざるを得ないことになっているのでしょう。

★育児 心身の健康な最長、生活リズムと習慣(食摂取、排尿起床就眠)、自分の日常的生活習慣の定着化(自分だけで、トイレを使える、服を着られる、衛生確保、友達集団関係など)

★教育問題 習い事、塾、外遊び、テスト競争、受験競争、学資積み立て、学業不信、先生友達関係、集団関係、ゲーム、その他とその費用

★文化的問題、スマホネットなどの通信、書籍、人付き合い、冠婚葬祭関係、旅行や余暇、美術観劇音楽会などとその費用 社会と個人家庭の生活文化の継承

★四苦八苦とは仏教用語で、あらゆる苦しみの意味。四つの苦は。生老病(しょうろうびょうし》生まれ死に老い病にあう苦しみのこと。
八苦はその4苦に加えて、愛別離苦(あいべつりく)を加えたもの。愛は男女家族友達などへの広い愛に伴う苦しみ、それらとの別離の苦しみ。
怨憎合苦(おんぞうえく)人々と合うことで生まれる苦るしみ、互いに相い苦しめ合う苦、その四苦のこと。
さらにそれらが重なり生まれる求不得苦(ぐふとくえく、きゅうふとくえく)様々なものを求めても得られない苦しみ。五蘊盛苦。(ごうんじょうく)肉体と精神〈意識心理〉を形成する五感とそれらから出てくる六感(考え感じる性質)から生まれる苦しみ。
ようは、これらを加えたあらゆる苦悩のこと。

悪政が国と社会をおかしくして、国民の生活を破壊している

様々な生活苦に振り回されているうちに、夫婦や恋人を結び密着させる鉄則を自覚していたとしても、二人が交流や交歓できる環境と条件がなくなり、いつの間にか距離ができてしまうことになるのではないでしようか。
しかもそれらの自覚がないとすれば、男女と夫婦関係は社会問題の影響で絆が薄れ、失われてしまうのです。
しかしそうだからこそ、男女夫婦がこのことを忘れず、一緒になり体と心と愛情を合わせて、より良い社会とそのための政治を求めていかなければならないのでしょう。

二人が一緒になって悪政が作った様々な社会問題を改善改革するように取り組まないということは、経済的劣悪によって幸せが壊れ愛がなくなつていくのを知っていながら、それと戦わないでその愛と幸せを作ろうとしていなということになります。

そうして、それを男女夫婦が容認しているということは、男女夫婦は互いに性愛の基盤がなくなる(その気や心がない)ことを知りつつ、自らと相手を誤魔化し、虚構の男と女の生活をやり過ごして、無為な生活を送っているだけとなり、共に生きている意味と実体がなく、愛と幸せを感じられず、心に穴が空いたような、空虚感が支配する関係となってしまうのでしょう。

現実の社会では、政治への無関心層が多く、愛を壊す政治的社会的な問題と戦わない男女が多いのですから、その人間の体と愛情(心)の原理と構造を自覚していない人々が多い事が示されています。

多くの人々が、社会的な問題により、夫婦恋人の生活が人として生きられない、あるいは生きづらい問題に直面しているのてすから、「愛」は二人の頭の中の言葉や感情だけになり、現実的社会的なに愛を守る実際と実態がなく、空虚なものになるのは当然なことだといえるでしょう。
ですが、長い生活の中でその空虚を感じ始めても、その実態を自覚(原理と構造知らない)していないのです。

あるいは互いに愛を深め大きくして育てていく方法が分からず、その空虚感をどちらが感じはじめ、或いは互いに感じはじめ、その説明もできずに虚構の男女生活=愛の実感がない空疎感=から男女どちらがの不倫現象が起こる事になるのでしょう。

それはそうでしょう、何しろ荒んだ「愛情」とすさんだ生活(仮面夫婦)を死ぬまで続けなければならないのですから。
生活と夫婦の間に現実的社会的な実態感がないのですから、空虚なものになるのは当然なのです。
これでは家族もろとも救いようがなくなってしまうのです。

こうしてやっぱり、不倫現象が起こる事になってしまうのでしょう。

★注 本当は、空虚感や空疎感を与えるのは、上に書いた政治や人間の錯誤原理と構造だけでなく、社会学で解明されている「疎外」と呼ばれる要因もあり、それは人間属性とその社会《自然も》の関係から生まれるものて、特に資本主義においては人間を苦しめる原理として作用し強くなっているものてす。
これこそが当該問題でも根本原因なので大切なのすが、説明も難しくさらに長文となりますのでここでは但し書きで示すだけとします。

「不倫をしたい男女」というグループがうまれた。

こういう原理と構造が確かにあるから、当該「不倫をしたい男女」というグループができ、運営を続かせることにもなっているのでしょう。

実際生活苦とその実態が空疎に成らざるを得ない一方、不倫の方は実態生活とその苦悩っから切り離されてありますので、男女の愛と幸せ(頭脳の意識と心と感情などのことですから)を比較的に純粋に求め合うことができますし、またそれを互いに確認できることで救いとなっています。
さらに実生活?(虚構生活)と夫婦関係の苦悩から精神な病になる前の、さらに死にたくなる前の、実際的な救いともなっているのです。

私が不倫に男女の純粋な愛と幸せがあるなどと主観勝手に、とんでもないことをいってると感想を持つ方もいるでしょう。

ですが、この原理があることを証拠付けて、同じ現象は青少年たちにも現れています。

彼らは、悪政と社会の不条理から現実界では互いと競争しあい、敵対的な関係に立たされることになっています。

特に近年では幼児からの習い事競争、有名塾入塾受験競争、学校クラスの習熟度テスト競争、受験競争、体育競争、ファションありナシ競争、クラスカースト、人格人望人気競争、地域父母の評価競争等々。

何でも(全てといっていいほど、競争に負けると未来まで失う)競争と敵対的な関係に置かれているため、友人関係は虚飾化されてしまい、心通う友情が作りづらくなっていますし、虚飾の友人は作りたくもなくなっています。

しかし電網ラインゲームの虚像世界では、ゲームが設定する一つの目標に向かい、そのゲームで出会った複数の友達と一緒になって、敵と戦ったり攻略しながら、その目標に到達することで、その達成感、喜び、感情、同一感といった心が結ばれ、友情(愛情の1種)が生まれることになっています。

つまり虚構の中で比較的純粋な友情を育み、喜びを共有しあい、疑似体験と時間経験を共有できているのです。 

そうして現実の社会では、それらのゲームで若者同士や主婦などが知り合い、心を通わせる関係(マスメディア情報しか知りようがなく、社会底辺の実態を知ることはない人もいるので、ハッキリいうと、不倫関係)も生まれています。


「悪政と悪政が作った社会を改善改革する意識と心」

悪政が続く社会的な要因が男女夫婦二人を割くことになる、様々な苦悩と困難をうむ原因だというなかでも、特に見落としがちなのは、悪政社会によって私たちが様々に洗脳されているという、もう一面の問題もあるとい点です。

「悪政と悪政が作った社会を改善改革する必要」というなかには、悪政そのものが自らの悪政を隠すために様々に言い繕い、嘘を生み出して広めることで、私たちが様々に洗脳がされている問題があるということです。
つまり恋人夫婦の頭脳にある意識や「心」や愛情と言われるものが、洗脳手段で歪められている問題になっていることです。青少年たちも、競争意識を洗脳されています。
そのことはわたしたちが、悪政とマスコミが連携して国民を騙すために洗脳をしている状況を、変えなければならないことを意味しています。

例えばここでの話に合わせれば、悪政をかばうマスコミにより、国民や青少年たちが人間の本来の生理やその社会の価値観で、政治家性質とその政治や社会として考えたり判断したりするのではなく、また判断できなくなり、文章法律の価値観で見て善悪を判定したり、裁判の勝ち負けの価値観で判定したりする考え方を洗脳されてしまい、歪んだ思想と感情や心になっているようになっています。

その歪んだ思想と感情の価値観洗脳よって、ここFBの「不倫をしたい男女」グループの「不倫は違法か」という出題そのものとなり、その議論にもなり、性愛や家族愛、家庭の問題などを、法律の問題として捉えたり、考えようとしたり、結論を出そうとしたり、討論に巻き込まれたり、討論が激論討論となり、正解は出ようもないのに男女(人間)が対立させられているのです。

つまり男同士、女同士、男女が人間の姿と愛と幸せを見失なわされているのです。
それらを洗脳によって奪われているのです。

他にも様々な洗脳が行き渡り、とうとう今では弁護士や法律家も裁判官も上に示した3つの法を知らないままで、法律の教育と洗脳がされてしまうことになっています。

法文が絶対で、それをもとに法廷でも相談事案でも、対抗対立闘争をしていくのだと洗脳されていて、手がつけられない状態になっているのです。

それをまたマスコミが拡散宣伝することで国民が洗脳されてしまい、同じように全ての人間現象や社会現象を法律の価値観や、その背後にある競争の原理の価値観で評価判断することになっているのでしょう。

そこで「不倫は違法ではないか」という電網界での投稿や議論となっているのです。

おそらく法律家を養成す法科学院でも、それら3っの法の優位関係(命の問題関係)を教えられず、人間の姿が片手落ちの憲法・法律とその理論(法哲学なき正義)を洗脳的に記憶させられていることでしょう。

(現代の司法状況は、法哲学なき法技術主義=実際の人間の姿とその社会を顧みず、法律のあれこれの技術的手法を利用して勝訴しようとか、法理論を組み立てようとする考え方。また一般に六法とわれる各分野法の目的主旨法より、瑣末条項に優位を置く実定法優越主義。「理屈とドアノブは何処でも付けられる」という原理の法解釈主義。など)

すでに国民は、悪政が長年に渡り作くった教育制度(システム)によって、法律家もマスコミ人も、教育家や教育学者、ほかの学者も生み出され、国民は教育とメディアの両方から教育的に洗脳的されてるのが実情です。

全ての人間現象や社会現象を法的思想(単純な人権、権利、民主主義思想など)や法条項や競争原理、賠償金の過多などから説明したり、評価したり、裁定し判断したりすることになり、錯誤と歪みを持つた人格と思想になっているのでしょう。

(実際の離婚裁判でも男女と子供の愛と絆が失われ(家族が負け)ているのに、賠償金の過多を勝ち負け問題にして、勝てば優越と安堵の感情となり、負ければ恥と負債になっているだけです)

最近では人間と性愛の行為活動について、「性の合意」だとかの倒錯思想が流行らされ、洗脳が進んでいるようです。

それらをまた、マスコミが「報道」して宣伝するという、錯誤拡張のスパイラル(錯誤を進める螺旋的下降運
動のことで、上昇的な螺旋運動としては進まない、改善方向には進まないかのような思想)を洗脳されてもいます。

この様々に折り重なった洗脳問題は、人間がもつ認識の疎外的性質による「強情」によって、解決は難しく人間と社会の破局を迎えるのを待ち、新しく作り出すことで改善する以外なくなっているように見えます。

私情的想いの在り処

学術から俗論まで錯誤と洗脳が行き渡り、重層し、それらが複合して、糸玉のようにこんがらがった現在となり、これまで述べたような正常な人間論、性愛論、社会学の意識をもって、実践的に戦っている、つまり深い真実の愛情を追求している女性はいないものでしょうか?
皆無でしょうか?
せめて、私のような意見を素直に聞いて見ようという女性はいないものでしょうか?
人間の事実の姿を素直にそのまま受け入れ、その事実社会の姿を受け入れられる素直さを持った、錯誤洗脳が少ない女性はいないものだろうか?
と思うのですが。

参考推薦

「猿から人間になるまでの労働の役割」エンゲルス。必要不可欠
「家族、私有財産国家の起源」入門不破哲三。必要不可欠

様々な「日本の民俗学」の著書に、農業生産と農農村集落や商業市や城下町、宿場、都市などとの人々の生活関係や実際が示されているので、それらを参考にしてもらいたい。

高群逸枝 (たかむれ いつえ、本名:1894年(明治27年)1月18日 - 1964年(昭和39年6月7日)は、日本の「女性史学」の創設者であり、日本の詩人・民俗学者https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%BE%A4%E9%80%B8%E6%9E%9D 『女性の歴史』上・中・下・続(講談社、1954年 - 1958年)講談社文庫

世界的には、日本発の「民族学」という学問の独立性の承認が進まず(現在はどうなってるのか知らない)ヨーロッパ世界の風俗を歴史的総合的に述べられたものとして有名で、日本で出版されているものは下のものとなるだろが、さらに現代的倒錯基準では「古いもの」となるが、資料的にも理論的にも真実(言うまでもなく当然ながら、フックス以降の検証など訂正発展があるだろう)から、その価値はなくならない。

風俗の歴史 エドゥアルト・フックスの著作
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E4%BF%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
フックス著、安田徳太郎訳、『風俗の歴史』(全10巻)、光人社、1966-1967.


後日添削あり。2020.11.27