見比べるということについて。
見比べるということについて。
加藤周一という「知の巨人」だと言われていた人がいた。
日本の状態に匙をなげてフランスのどこかの大学の教授をしていた人だ。
彼が言うには二つのものを見比べていても正解は出ないという。最低3つのものと、しかもそれぞれ違うモノと交互に見比べないと正回答を得ることはできないのだと言っていた。
これは認識論や科学論として出発点となる根本的(あくまで的であるが)視点である。
この原理を知らない人が割とおおい。
見比べて正しく判断を下せるためには。
人類が正しい認識を進めてきた歴史においてその第一義的な原理は、つまり科学的な正しい認識進めてきた結果獲得した原理は、「最低三つのモノと見比べる」という意味と、そこに深い内容が秘められていることについて知ったことにある。
例えば「日本という国を知ろうとしたら、外国のことを知ってそこから見比べないと日本という国のことは分からない」。
などといって外国に行き、その国と見比べて確かにその国と日本は別な点が多いのだな~と感じたり思ったりして、日本を見直し知った気持(考え)になる。
しかし日本とABCD・・・・国という全部と見比べたとしても日本と全く同じという国は一つもないはずだろう。
ということは日本という国を知ろうとしたら、その他の全部の国を見比べることで知ることができるのだろう。しかも各国の歴史、民族、生活風習などなど沢山の要件を見比べなくてはならないことになる。
それは別な各国のどれか一つの国を取り上げてもその沢山の要件を見比べなくてはならない原理は同じことで、それら全部の他国を知らなければ「自国」を知ることはできない。
より正しい評価基準と判断基準を持つために。
人類はこのような問題に直面して正回答を得るためには、全部の国の違いをそれぞれ見つけ比較するだけではなくて、各国に共通するものを見つけ、その上で各国の違う点を見つける方法を編み出した、というより発見したのである。
その違いを見つける共通定規として一定の評価基準および基準器をもち、そこから見比べることで各国の属性(様々な性質)の違いを見つけて、どのぐらい違うのかなどを知ることができる、ということを発見したのだ。
つまり学問的な基準を持つことであり、その定規は世界共通の学問であり、国別の違いはない。
(科学論的に言えば、ある問題を解明するときは、世界の中から類似問題(共通項)を見つけ、それら一つづつの中にある諸側面や属性を別け(分析1)、さらにそれぞれの属性の細部の違いと共通項を見つけ(分析2)、共通項を割り出す(抽象化)こと。それを繰り返すことで解明や理解が進んで行く。)
分かり易く言えば1+1=2は万国共通であり、過去に溯っても*、未来でも通用する概念である。
(*数の概念の存在は過去に遡ってもあると言うのは、猿人はどうだったか知らない《共同して狩りなどしている場合に、食料を公平分配するので数量の初期的概念は有った可能性の方が強い》が人間化するにつれて数を知りその概念を獲得してきたのだが、人類が知ろうが知らないかは関わりなく、概念的数は客観存在していて、人類史はそれを発見して来た歴史だったと言えるだろう。したがって現在でも数学者が数概念の発見を目指して探求している。)
こうして発見してきた一々を記帳し、長い人類史の中で体験した当否両面の知識を記帳し積み上げてきて、「学問」と呼ばれるものを見つけ、さらにその知識を積み上げてきたのであり、その繰り返しによって不変的基準器としての精度を高めて来たのである。
これを言葉を換えて分かりやすく説明すれば、その学問とは例えば長さを図る定規の役割をもつもである。
一つの学問は、社会や自然にある様々な側面にある問題を見出したときに、それについての正判断を与えるための定規となるものなのだ。
だから一つの国をどんな国なのかを正しく判断するためには、本来の正しい経済学や法律学(各国の法律とは別の)を、政治学、教育学、民俗学、歴史学、地理地政学などから、その国の経済など諸側面ごとの学問別分野を検討し判断することで、正しく評価判断を下せるのである。
特に自然科学系の学問は世界共通の学問であり、国別の違いはない。
したがって私たちは正しい社会科学の各学問(基準器)を持たなければ、各国の社会的姿(諸側面や属性)を正しく捉えることはできないのである。
日本らしさ、自分らしさとは
さらにまた国家のアイデンティティーといわれるものを自分個人のそれに置き換えると、自分を正しく捉えるためには同様の原理があるわけである。
そこで世界全部の人々と、過去に生きていただろう人々とも見比べなければ、正しい判断はできない。
しかも正しい諸学問を全部身につけなければ、自分を見定める正しい判断基準、評価基準を持つことはできない。そのことを知らざるをえなくなる。
そこで大昔の人々は、人間に関わる全てのものを見て正しく判断を下せるもの、さらに自然を見て正しく判断を下せるもの、しかも人間と自然を見る目(評価方法)に違い(矛盾)がないないものを見出す必要があり、様々思考し論争して宗教編み出してきた。
仏教などは各宗派共通の仏典(キリスト教でいう聖書のような、学問で言えば教科書のような)がないため、今でも宗派が分裂し、より正しい解釈を与えるものを見つけようとしている。
キリスト教は聖書(時代ごとの「現代語訳」)があり、それを評価基準判断基準にするために一定の宗教的価値を保つことができている。(より正しい解釈を得るためにキリスト教学者や宗教学者たちが研究論争を続けているのだが、基準器としての精度は仏教より優れていると言えるだろう)
学問としては、それらに回答をあたえるものとしてあるのが哲学である。
キリスト教の聖書が編纂される時にはギリシャ哲学から一々の合理的回答を学び、自分たちの宗教(聖書)に取り入れてたために、その生命力を持つことができている。
従って現代では学問としての哲学を知らなければ、正しい認識と評価と判断基準の原理を知ることができない。
哲学(美学芸術文化評価も)はそれら全ての学問の認識を巡る中心問題に回答をあたえる学問であると言える。実際に正しい哲学は科学的認識を獲得し、科学的認識を進める方法を示し、物理学の発見にも大きく貢献している。
宗教学でも真の宗教学はそれを研究し記述する者が、仏教やキリスト教などどの宗教・宗派にも属さずに、宗教を客観的に論述したものでなければ「宗教学」の名に値しない。だが現代の多くの「宗教学」なるものは、記述者が哲学をしらないために、その点を勘違いして宗教とそれら一宗派の研究とその記述と流布(つまり宗教活動の目的の)のものとなっているため、注意を要することになっている。
歴史学も世界共通の学問基準が確立していないため、同様の問題を抱えることになっている。
暗示的なメモになるが、ヘーゲルも歴史哲学を書いているし、マルクスやエンゲルス、レーニンも「歴史的」唯物論を書いている。