ainomiya999’s blog

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自分とは?・アイデンティティー・ナショナルとインターナショナル

自分とは?・アイデンティティー・ナショナルとインターナショナルのことについて。

問題事例




マケドニア」国名に使うな ギリシャ北部の住民がデモ
2018年6月7日 6時33分NHK WEB
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180607/k10011467391000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_002www3.nhk.or.jp


マケドニア」という国名をめぐって対立してきたギリシャマケドニアの政府が新しい名称での合意を目指して交渉を続ける中、古代マケドニア王国が栄えたギリシャ北部の住民がデモを行い、「マケドニア」を含む名称は一切認められないと訴えました。

ユーゴスラビアから独立したマケドニアの国名をめぐっては、隣国のギリシャがかつてこの地域で栄えた古代マケドニア王国に由来する名称だとして変更を求め、対立が続いてきましたが、両国政府は「北マケドニア」などを候補に挙げて新しい名称での合意を目指し交渉を本格化させています。

こうした中、古代マケドニア王国の首都があったとされるギリシャ北部のペラでは6日、地元の自治体のトップなど数千人が参加してデモが行われました。参加者は「歴史を変えてはいけない。マケドニアギリシャのものだ」と声を上げ、ギリシャ政府に対し「マケドニア」が含まれる名称は一切認められないと強く反発しました。

主催者の1人は「政府は市民の声を聞くべきだ。マケドニアはわれわれの遺産で、譲れない」と訴えました。

ギリシャ政府は、これまで国名問題を理由にマケドニアNATO北大西洋条約機構などへの加盟を阻んできましたが、マケドニアの安定に向けて加盟を後押ししたいアメリカやEU=ヨーロッパ連合から、国名問題を解決するよう強く求められています。

国内に反発がある中、ギリシャ政府は今後、難しい決断を迫られることになります。





   これ以降が私の意見です。


上の記事のような民族問題は。あるいは帰属問題はと言うべきか、それらの問題の捉え方には問題意識によって若干の違いがある。

日本でも一民族としての在日朝鮮人の人たちが、日本から朝鮮や韓国に国籍を換えて当地で暮らすと、「日本で暮らしてたから普通の韓国人とは何か違う」などといわれてしまうという話も聞く。

在日朝鮮人が自分は日本人にもなれないし朝鮮(韓国)人にもなれない、などという自分が帰属する集団がどちらなのか分からないなどという話も聞かれる。

一つの民族(アイヌ民族もいる)状態の日本人でも、他の先進国から帰国した子女などは、同様な差別的扱いをされるて自分が寄って建つ足場(帰属するもの)がないともいわれている。

さらに一つの民族ある日本人の国内でも、日本人同士で東京人は~だとか、大阪人は~、京都人は~などと言い合って、分け隔てるものを示さず差別的に決め付けるようなものもある。

このように集団をなんらかの要件で括るものの種類は多様にあり、一族郎党というものもある。

同郷意識というもで括られる場合もある。同属意識、同窓意識などというものもある。

上は民族や国から、下は個々人の生活に密着した集団を一括りにしたものまで(挙げていないものもあるが同宗同旨意識・応援野球チームの共通意識などなど出自に集団指して差別対象にしたりする場合もある)ある。

それら全部は帰属意識といえるが、民族意識とは明らかに違うものだろう。
民族意識は国をまたいで民族がある場合もあるように、帰属意識より広い意味や長い歴史の意味も含んだ大きな集合体とその意識(抽象的なイメージ)ともいうべき性質を持っている。

さて、それらの問題はときに民族戦争や宗教戦争とかを起こさせる原因にもなり、人々を悩ませたり、その悩みの正解等を得ようとさせたりもする。命に関わる直接的な重要問題のもなる。
上の記事も同様な問題で、内乱でも起きかねない危険な問題と直結している。

そういった私たちの命の問題とも直結した、根本的な問題の原理と構造(関係)について話したい。

つまり人間の集団を世界的なものとして括ったものとして、国々を括ったインターナショナルな集団がある。

それより小さな集団としてある国とか民族とかの性質で括った、ナショナルなものがある。

それらと個人自身を括ってある、アイディンティティー(帰属意識)という、集団形成の最小単位となるものまである。

このなかに「自分とは何か」とかというテーマもある。さらに自分の性格・自分らしさ・自分の適性・自分の女らしさ・自分の男らしさなどのテーマもあることになる。

このような問題を考える上でまず指摘すべきは、このような問題は自然現象の問題ではなくて、人間とその集団(集合体)現象だということで、それはだれも否定はしないだろう。

(注、しかし自然現象と人間現象を分ける問題意識には、梯子段《ハシゴダン》のような問題意識の構造がある。
そうした階梯の最上段から自然と人間の現象の問題を見ると、人間現象も原始地球が生み出した生命現象であり、それが現在まで続いてある生命現象なのだから、そうしてある人間現象も自然現象の一部だといいえる。
だから上のような人間集団を分ける民族問題のようなものを人間現象だと結論を下したことは、正しい判断だったと思っていたことも、こうして階梯意識を一段上げて見ると人間現象も自然現象の一部だということになる。
したがって民族問題なども自然現象だという問題意識の方がより正しいと言えることになる。
こうした問題対象を捉えるための階梯によって、正解等が誤りに入れ替わる関係《構造》がある。)

そこで、人間現象を正しく捉えるためには、まず人間集団の最小単位である誰れそれ「個人」を、あるいは自分自身をどのように捉えるのか、ということが人間現象(問題)の全てを捉えて、さらに正し答えを掴み、解決を得るうえでの根本的要因となる。

(少し脇道に入る。私のこのような言い切りについては、上から目線とか説教口調だとか決め付け臭いだとか受け取られることを、私も理解している。しかしこれを読む各自が、私が「~ではないか」「~と思われる」「とも言えよう」「だろう」と言っているものと考えてほしい。
というのも私が考えるところでは、断定や言い切りをしないと、何をいいたいのか分からないからだ。とくにこのようなブログだとかの短文だと、先ほどの階梯問題のようなことまで述べることは出来ないのだから、階梯意識がある方には「~ではないか」とか書かれていては何が言いたいのか分からなくなるのだ。階梯の違いによっては「抽象的」と「具体的」が入れ替わってしまうことがあり、ある本の執筆者が階梯意識を持っているのか、はたまたそれを正しく持っているのか、あるいは階梯意識が無く段数がまちまち(ボタンの掛け違いなままのよう)なのか、何をどの階梯で言っているのか、分かりづらいことになるから、私は言い切りにしている。)



話を元に戻して、
「個人」というものについてと言うのは、実際問題として話せば先ほども触れたように、自分はどのような性格だろうかとか、高校、大学、就職、職業などの選択などの時に問題となる自分の適性だとか、自分は器用か不器用か、性格がいいか悪いほうか、怠惰か勤勉か、努力家か怠け者か、負けず嫌いかどうか、などあらゆる価値観(好き嫌い・愛情と有無・幸せと不幸せ・自分らしさ・女らしさ、日本人らしさ、道徳・倫理・などなどこれを読む各自が挙げてください)に関係する事柄に関わる問題のことだからだ。

一言で言い表せば「自分探し」に関わる問題のことである。

集団構成する個人というものを、ひらたく言えば氏名を持った人のとである。
あるいは自分ということである。あるいは私、己、われなどという者のことだ。

やや文学的な曖昧な言い方になるが分かりやすくするために、こうした個人には二つの顔がある。

今挙げた自分という顔と、人(ヒト)という顔である。つまり自分は人であるということだ。

このような人間の属性(ここでは顔のこと)を持つのは、赤ん坊として一人でこの社会に生まれてくるところにある。(例外的には双子や三つ子の場合もあるがそれは特殊例外である)

この人間の属性である二つの顔を別な言葉で換言すれば、個人としての具体的な命であるという属性を持っているということ。二つ目には、個人が社会の中に生まれてきたことで生まれる、「ヒト」という一般的な社会的属性の、捉えよどころがない抽象的な命のことである。
(「この人は~」というときのように個人を指し示す場合もヒトであり、「人は動くものだ」というようにヒト一般を指すこともある。)



こうして個人は二つの属性を持つことになる。

この二つの顔によって、多くの人々が「自分」というものについて考えるときに、この二つの顔を峻別する意識が未成立なために、悩みを生み出すことになっている。

その例として次のような問題が発生することになる。自分とヒトとしての二つの顔は肩を並べて同等平立な関係(構造)にあるのか、それとも主従関係があるのかという問題が生れれることになる。

これを読む貴方は、自分の二つの顔のどちらを主体とするのか、より大切なものはどちらだと考えるだろうか。
手短に話せばヒト(抽象的なもの)の顔の方がが主であり、個人(具体的なもの)な顔が従の関係としてある。

それが証拠に、個人の命は、親である男と女の生殖活動によって実現(産まれてくる)するものだからで、二人の親という二つの命によって、その二つの命がそもそも無く、居なければ、赤ん坊としての一人、個人の命は具現しないからである。主は親である一対の男女の方にあり、それは自分(赤ん坊)にとっては自分の皮膚の外に居る、社会的存在している親に主がある。

つまり社会的な顔であるヒトの側が主なのである。

産まれ落ちてくるときも、産婆さんや婦人科医師,看護師など社会的にいる(ある)複数の人々によって赤ん坊の命が具現し、その命も維持されて、さらに赤ん坊の皮膚から外側に居る他者としての母親の乳によって成長し始めることができる。

もし外的存在である母親が乳を与えければ、歯がない乳幼児が食べられるものはなく、死んでしまうだろう。

つまり赤ん坊に対して外的存在の男女によって命を与えられ、さらに外的存在としてあるヒト人(人々)によって自分一つの命が始めて存続できるから、外的存在とそれを言い表す「ヒト」の方が主だと言えて、それ次第で固体である個人は生きられなくなる、そのような従属関係にあるのである。

換言すれば、ヒトというものは抽象的な複数人(地球上の全てのヒトを指した意味の言葉)を言い表していて、それによって個人の命が維持されるし、また育まれるから、ヒトが決定的な意味と意義を持っているから、個人の命に対して主となる性質をもっている。

さらにそれに対して個人は、その主体(複数人、集団、社会、国、世界、歴史、宇宙自然全体といった、抽象的型体側のこと)に従属的関係としてある。

ここで明らかになったように、自分と言う者に対して考えたりして思考活動をするとき、主体の側に重きを置いて、主体がどうあるかを知らなければ、個人である自分とか私とかは、捉えることができないといえる。

だから、「自分らしさ」「自分らしく」「自分の個性」「人格」などなどを知ろうとする場合は、自身の外的にあるヒト=ヒト全体の社会を知ることで初めて分かるのである。




その典型的な実証例は、言語にある。

日本の赤ん坊が成長するに伴い突然発語するときは、日本語であって日本語以外の英語でもないしドイツ語や他の言語でもない。

なぜそうなるかは、いま実証したようにヒトとその社会(人々)が主であり、主因、主要だからだ。

個人の脳はそれに対して従属的関係にあり、社会的にある言語が無ければ脳の中には言葉が生まれようもない。命さえありようがないのだ。

さらに、発語だけ日本語なのではなく、言葉の意味についても社会にある意味の通りにコピーしようとしてある。

さらにそれら言語の意味を組み合わせて生まれる、考えや概念をも社会にある通りにコピーしようとしてある。

そのコピーに誤りがあると外的存在のヒトによって、改めさせられてより正しいコピーになるようにさせられる。

「改めさせられ」ると言う中には、社会が示すものと齟齬をもつとヒト人と圧力が発生しその者は悩まされる結果とる。

こうして誤りを直さない限り苦しまざるをえなくなり、いくら年月を掛けてもその分苦しみいつか改めざるを得ないのだ。結局「改めさせられ」という意味になるのである。

したがって私たちが何か悩むときも、社会が決めている通りの思惟(考え方や意識や思想などのこと、全部挙げることはできない)活動をおこない、社会が示していたり定めている意味と合わない状態のとき悩みとなる。

そうして社会が意味づけている通りに従い、またそれが辞典のように矛盾無く整序され大系化されている通りに思惟活動を進めると、解決(解を見つけそれに違いないと決める)をえることが出来る。
(注 現在社会が言葉と意味を乱しているように、個々人の思惟活動も言葉の意味内容が乱れ矛盾し、その社会矛盾の重複合の様態の通りに悩みも複雑化して、その解決も難しくなり、何層(階梯的)にも重なった矛盾を一つづつ解いていかないと解法は得られないことになってしまっている。)

かくして個人、ヒト、ヒト人、集団~社会~国~歴史、世界、自然、その全体の世界観と思惟(イデオロギー、意識、認識、思想などなど)の関係(構造)を解明しないと、自分・アイデンティティー・ナショナル・インターナショナルというものを掌握(理解・問題解決・解決策を見つける)することはできないのである。




その上に、つまり階梯を上げて問題をより明らかにして、正解等を得るためには、次のような原理・関係と構造も理解しなければならない。

これまで論証してきたように、自分(個別性)というものを正しく捉えるために、社会的なものを正しく捉えなければならないのだが、しかしそれは次のようにあり得ない錯誤解等なのである。

なぜなら、社会を捉えようとしても、今見ている社会は常に移ろい変化して、その姿は一瞬のうちに消失し、一瞬のうちに新しい像に変化するため、実像を捉えることは絶対的に不可能なのである。
さらに自分なるもの(個性・個別性)も、常に変化しているので実像を捉えることはできないのである。

こうして意識活動で私たちが自分と呼んでいるモノ(言葉の)も実体はないことになる。

というのは例えばこれを読む貴方が今40歳だとしたら、今の己を自分とするなら、では30代の己は自分だったのかと言えば、それは現在有る自分という実像である外面(肌・皺・脂肪の付き方・髪の量・質など)内面(知識・意識)とは別物だったはずだから、20代のときの自分でもないし、10代の自分が自分(今の)ではないと言える。だかから、ではそのうちのどれを、どの年代を自分だということができるのだろうか。

女性場合の10代の自分は少女、青少年だとヒト人が言いい、20代は若者と、30代には妻、嫁と言われ、40代までには母、壮年などと言われ、50代には・・・・・と言うように呼ばれ方も変化しどれが自分であり自分らしいなどと言えるのかわからないのだ。全年代が自分であり、自分でもないのである。

自分などと呼ぶものはそれら全部の年代を含めてあるとしても、死を迎えた自分の年含めなければならないだろう。

ときおりある意見だが、それら全部が「自分だ」とする意見なのだが、しかしそのような考え方だと自分自身の各年代の違い(上の例のような変化)を分けて見られず、その自分を自覚していないことを意味するだけとなるだろう。具体的な実像(様々な属性)のない「自分」となるだろう。つまり虚無・虚空となり、つまり錯誤ということになるのである。

このような意見がまだあるのは、日本ではまだ近代的な自我意識が未成立で、自他や命と農地の意識が分かれていない封建的な意識が続いてあるからだろう。

封建意識というのは農地とそこから収穫できる生産物によって命が維持できるので、農地と家族全員の命が不可分な時代の意識で、農作物の出来具合で生存の有無や空腹度や飢餓状態と直結しているときの意識なのである。
婚姻も命と家(=農地)と家父長などと直結しているから、婚姻は家長が決めることになるのである。その家長の判断しだいで家族人員数も変わり農作業の進め方や、、作物の植え付けから収穫量までが変わり、家族の命の存続が安定的にあるか不安的かが決まり家の富が決まのである。


話を戻すが

こうし実際的には、自分というものを把握し知ることは不可能であると言わざるをえない。


だがしかし、自分自身は実在はしているのであり、実像はある。年代別の自分の違いも確かにあった。

*この点は後に述べるように重要な意味を持っている。

ここに出現する自分が居るのに自分が「無くて有る」というトリックは、個人としての肉体的物体的実体は存在しているが、それを指し示す「自分」なるモノは「言葉」であり、その言葉そのものは見えず、手に持てず、匂わず、聞こえず、味わえず、五感で確かめようもない、想念・概念・意識界のモノなのだから、そこ現実空間には物的肉体は存在しているのだが、言語的観念的意識界では存在しないのである。

こうして言葉としての個人、ヒト、ヒト人、集団~社会~国~世界、自然、その思惟(イデオロギー、意識、認識、思想などなど)を捉え理解するこができづらくなるのだ。

人間は五感と意識によってしか、対象(この場合個人~世界)を捉えられないし、言葉が無い限り思惟もなく、それら対象のあれこれ(属性)を知ることはできないのだ。

唯物論から見ると、人間には五感があり生産活動と不可分ナ存在なのだから、その生産の実践活動ににより認識でき意識できるのだとしていそれも正しい。
ここにある意見の対立は鋳物と意識の優位関係ではモノの側にあるが、意識との関係においては


さらにだがしかし、人類の時代が進むうち、つまり人類が例えば1歳と呼ぶ時代のときと、10代のとき、20代のときという具合に成長するに従って、その個人~世界の実像が徐々に明らかになってきていて、その分だけ実体を掴むことが出来ているのである。

かさねてこれまで個人~世界・言葉の性質などの問題の、原理、関係、構造は解明できているのだから、問題掌握のための手段は、その原理~構造の手段いがいにはないから、すでに正解等は得られてもいるのだ。
いいや個別的な性質も捉えなければ、解明はできていないし、正しい正解等は得られない、という疑義も出てくるだろうが、そういった疑義を持つ方には
上に解明したとおり、社会的なものが主であり、個別的なものは従の関係であって、社会的な原理、関係、構造を解明することが、従属的にある自分・アイデンティティー・ナショナルなものを理解でき、その理解を相対して、さらにそれを拡張したものがインターナショナルというものであって、それをらを掌握(理解・問題解決・解決策を見つける)することができるのである。
自分なるものを見つけるために、自分の内面をあれかこれかと探求しても正解等には絶対的に到達はしない。
つまり自分なる問題対象を掘り下げていても正解等には到達しないのである。
換言すれば問題対象を内的に下降しても回答は得られず、外的に上降しない限り正解等を掴むことはできないのである。



ときに話は変わるが、

あるいは変わるように見えるだろうが、学者や研究者は(全ての学問とその学者と研究者のこと、これを読む貴方が知っている全ての学者や研究者は)問題(テーマ)対象を研究し、問題属性を分解して、その中の共通項を割り出して(それを抽象化といい)、抽象化することで問題本質を掴むことができるのだと思い込んでいて、なかなか正解等を得られず悩むことになる。
これば学者研究者の学者研究者たる根本的姿勢であるため、研究の途中経過とその成果を書物にして発表すると、錯誤解等を世間に広め、さらに他の研究者がそれを学び、研究を進めて、、、、と言う具合に錯誤を拡張してしまう。
こういった原理も、問題構造全体に関係して、問題対象の正解等を得られないようにしているモノである。

さらに過去と現在の
哲学者の多くは、自分だとか人間だとかの実体はないのだとしたり、あるいは実体像を明らかにしたりそれを知り把握するためには、より優れた意識や理論や思想や哲学が必要なのだとするモノ(人間や書物、理論体系)がある。宗教なども意識や想念界に居るはずの神や教祖の書物、理論体系をもってすれば、それらが可能なのだしている。
しかし先に、実在はしているのであり、実像はある。*この点は後に述べるように重要な意味を持っている。ところから読み返せば、これらの哲学者の理論が誤りであることが実証されているだろう。
偉大なヘーゲルさえ、それらを掌握するためには、また人類を人倫の世界へ向かわせるためには「絶対精神」が必要であり、それが有る。と言っているぐらいに、「モノがあり、モノはない」という混同を克服できていないのが哲学界と思想界、学術界の実情である。

以上だが、問題対象が複雑なため、また急ぐ必要があたため、不明不足や誤字脱字などがあるはずだから、おいおい訂正して行くつもりである。
 
2018 ・ 6・8 初稿。 2018・6・9 2度目の添削校正