ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

自殺・自殺幇助。死刑・について

死を巡る議論―自殺天国のスイス    

 SWI swissinfo 社説    2016-07-11 11:00




https://www.swissinfo.ch/jpn/%E7%A4%BE%E8%AA%AC_%E6%AD%BB%E3%82%92%E5%B7%A1%E3%82%8B%E8%AD%B0%E8%AB%96-%E8%87%AA%E6%AE%BA%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9/42286650?moreComments=true#comment_5af9a97b0cf298dcca2ed3d3


不治の病であれ、生きるのに疲れたのであれ、死について議論する際、自己決定が最も重要であり最後の論拠となる。大多数の人が生の終え方を自分で決めたいと望む。スイスで広く受け入れられている自殺ほう助は、致死量の薬を摂取することで死を迎えるが、この最期の行為は患者本人が行わなければならない。事前に医療の手助けも必要だ。

 スイスは自殺ほう助の先進国だ。年老いた人が自殺する権利は事実上規制されておらず、外国人が安楽死を求めてスイスを訪れる「自殺ツーリズム」がブームになっている。このリベラルな現状を見ると、スイスでは自殺ほう助が肯定的に受け止められているような錯覚に陥るが、実際は違う。自殺ほう助は政治や宗教、社会通念や倫理などといった価値観との戦いの連続だ。たとえ差し迫った状況にあるからといって、人の命をどうするか、そもそも問うていいものなのか。自殺ツーリズムを法で規制するか否かの議論はいまだ消えることはない。
 スイスの自殺ほう助提供団体「ディグニタス他のサイトへ」や「エグジット他のサイトへ」は、自殺ほう助を「最後の人権」だと主張する。あらゆる手立てを失った人にとって最後の頼みの綱になるからだという。

 患者の希望は何よりも優先される。死にたいという希望は倫理的な判断抜きに尊重されなければならない。グラールス州の地方議員ティス・イェニー氏は同州の病院で自殺ほう助による死を選択し、その一部始終をメディアが追った。しかし、メディアが流した情報は非常にシンプルなものに仕立てられていた。つまり最期まで自殺の決断を貫徹した強い人間の姿といったようなものだった。著名人の自殺ほう助を伝えるニュースは、どれもそんなイメージだった。自ら命を絶つ自由は、以前は宗教信者らに軽蔑される行為だったが、現在では当局が許可し、尊厳を持って行われる、まるで何か素晴らしいことのように扱われている。スイスはその自殺ほう助のメッカだ。

 ただ緩和ケアの現場が示しているのは、現実はそうではないということだ。緩和ケアは治る見込みのない病気などを抱える患者の心と痛みを和らげることを目的としており、死や死にたいという意志に向き合い、またそれをタブー視することはない。自殺以外にも生を終える方法はある。自殺は家族や親類に後々まで負担をかけ、患者自身も最後まで死ぬか否かの極限の二択に悩まされることになる。私だったら死ぬだろうか。それとも思いとどまるだろうか。

 患者の意志は最も尊重されるべきだ。それ自体は正しい。この意志ははっきりとクリアーなものでなければならないが、現実はそうとは限らない。ここが緩和ケアの出番だ。過去の経験から、自殺願望は病気が末期の時に弱まる。また患者に知識を授け、寄り添った場合にも、自殺願望は低下する。弱りきった患者が自殺するか否かを一人で判断する必要はない。神学者で牧師のスザンナ・マイヤー・クンツ氏はグラウビュンデン州の地元紙ビュンドナーのインタビューで、このようなプロセスを踏む際には誰かがそばにいるべきだと語った。クンツ氏は、患者が同プロセスにおいて死の決心から解き放たれるさまを何度も目にしたという。これだけではない。頭の中が澄み渡り、心の平安を得ることで、患者の不安は消えるという。

 人生に疲れた人がいる。「人生を十分満喫した」高齢者も存在する。しかし、不治の病に冒され、死ぬか生きるかの選択を迫られるのはたいていがいきなりの出来事で、しかも体力や気力に充実した働き盛りの年代でだ。そうした時、患者の意志は他人の意見や価値観、信条、宗教や自身の不安など、様々な要因の影響を受ける。だからこそ、患者は本当にそれを望むのか、入念に確認しなければならない。それが個々の宿命の複雑さを尊重することにつながる。

 緩和ケアは万能薬ではない。しかし死を巡るオープンな議論の場を社会に提供してくれる。我々の社会はこの議論に真摯に取り組むとともに、自己決定権についても考えなければならない。スイスでは、自殺ほう助に対してあまりにも肯定的なイメージが持たれている。病気などで他人の手助けなしに何もできない時に死を決意するならば、単に自分で決断して致死量の薬物を飲むよりも、人間らしい生の終え方は存在する。もし、私たちの完全なる自主性に基づいて導き出した最高の生の終え方が自殺であり、それが理想であるなら、スイスは今一度立ち止まって考えなければならない。自殺ほう助が決して当たり前のことになってはならない。

自殺ほう助は基本的人権であり倫理的に許容されるか、あるいは自己決定権に制限を課すべきと考えますか?ご意見をお寄せください。

スイスの安楽死

一般的に、安楽死には複数の種類がある。「受け身の安楽死」は、医師が治療を中止することで死を迎える手法。「間接的な安楽死」は医師が患者に致死量の薬を処方し、飲み物を一切与えない手法。「自殺ほう助」は、医師が患者の自殺を手助けすることを指す。「積極的な安楽死」は医師が患者の意志に基づき、注射や薬物投与によって死亡させることで、スイスではこの場合のみが違法。
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関係機関の対応

自殺ほう助への対応は地域によって異なる。自殺を認める介護施設の数は増加の一途をたどっている。2014年、エグジットによる自殺ほう助583件のうち60件が高齢者施設で行われた。バーゼルでは、自殺を認めるか否かは各施設の裁量にゆだねている。カトリック色の強いヴァリス(ヴァレー)州は禁止。ローザンヌなどの州立病院やチューリヒ市の高齢者施設では自殺ほう助が行われている。





オーストラリアの104歳研究者がスイス到着、10日安楽死へ  


「死ぬ権利」

https://www.swissinfo.ch/jpn/-%E6%AD%BB%E3%81%AC%E6%A8%A9%E5%88%A9-_%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%94%E6%AD%B3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%80%85%E3%81%8C%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E5%88%B0%E7%9D%80-%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%97%A5%E5%AE%89%E6%A5%BD%E6%AD%BB%E3%81%B8/44106046#comment_


2018-05-09 16:24


高齢を理由に安楽死を希望していたオーストラリア在住の研究者デビッド・グドール氏(104)がスイス入りした。10日、バーゼルの自殺ほう助団体の支援を受け、自ら命を終える。

 グドール氏は9日、バーゼル市内で記者会見し、自殺ほう助によって人生を終えることに満足していると発言。ただ、本当はオーストラリアで死を迎えたかったと心のうちを明かした。オーストラリアでは自殺ほう助は認められていない。
記者会見のようす


 グドール氏はこの日集まった報道陣に「私が言いたいのは、50歳か60歳になった段階で、このまま生きるか死ぬか、本人が自由に選択できるようにするべきだ」と語った。

 グドール氏は長年、オーストラリアの自殺ほう助推進団体「エグジット・インターナショナル」の会員だった。104歳の誕生日を控えた4月初め、バーゼルの自殺ほう助団体「ライフサークル」のサービスを受け、安楽死をする意向であることを公表していた。不治の病に冒されているわけではないが、生活の質が低下していることなどが理由だという。

 スイスで自殺ほう助は合法化されている。このため、国外から不治の病や高齢を理由に安楽死を求めて来る人が多い。

薬物を飲んで死亡


 グドール氏は10日にも、薬物を飲んで死を迎える。

 仏ボルドーの親類を訪ねたことについて、グドール氏は「ボルドーにいる家族にさよならを言うのは少しつらかったが、仕方ない」と語った。








         真理の理論について。(私個人の意見)

    

       真理と真実には階梯がある。


階梯とはハシゴの段のように上に登っていくように人間が直面する一切の問題の回答を得て行く様子、方法をしめしたことばである。

その一段を登ることを、止揚と言ったりする。

ここで話す内容から分かりやすい例えを言えば、ある個人がいる。

氏名を持つ固有の人間のことだ。そうのような人間の顔には個人固有の一人だけを示すヒトという顔がある。

もう一つの顔は「ヒトは人間だ」というように現代社会的で歴史上に居た人たちを意味する「人間」という顔がある。

さらにもう一つは「人類」という言葉の、ヒトと人間の顔を含めた人類という顔がある。この顔を類的存在だとか普遍的存在だとか言う。

この三つはどれも個人が持つ人間の顔である。(*1)

ヒト個人が直面する問題は、幾つも複合した問題でも分解して問題原因を捉えると、必ず二律背反的な問題に行き着く。

例えば正義はあるVs無い。芸術の優劣を測る価値観はあるVs無い。幸せはあるVs無いから求めている。等などである。

これらの二律背反の問題の答えは相反するものに共通する要因を見つけて、その要因問題をさらに探求して二つとも解答を得ることを、階梯を上げた、上げるという。二律背反の問題は、常にそのように階梯を上げたところに正解等がある。

こうして階梯を幾段も登ると真実があり、さらに真理に行き着く。

それが人類の普遍的な姿である。

(*1 3つの顔は個人から人類までを説明したものだが、これ以外に自分の人生の中での顔も有る。男、夫、婿、父、爺、女、娘、妻、嫁、母。子ども、少年少女、青年、中年、壮年、初老、老人、職業別、職種別など等の顔をもつ。)


 真理の理論からすると選択死、幇助はあやまりである。

なぜなら人間(個人と人類史と)の生命は自然の摂理に則ってある。地球上の生命(植物・動物)を自身が生きるために、また自分勝手放題(食品を大量に捨てている一方では飢餓で死んでいるよう)に命を殺し自分のエネルギーへと転化し、自身の命としてきた。

また鉄鉱石などの資源を使い産業を拡大したり戦争をしたり、またそうして種の断絶などの破壊活動を行ってきた。

これらの万物に対しての責任(命を奪ってきた)を持ち、それを果たす(命を全うする、自省的に真理を掴む)のは真理が示し与えた人間と個人の義務である。

このような意味では、自死、自殺、死刑などは許されない、不当なものである。

とはいえ個人と人間と現在社会(世界)の非人間性の実情況の救いがたい事実(苦痛)から、救われることは許容されるべきだろう。
各個人家庭の経済的限界、政治的行政的な社会保障の貧相、民度の低さ(人間主義、人権思想、民主主義思想、近代的政治主義、人の目が、、とかの社会常識前近代性などの意識が低い)などの問題があって、植物状態でも生存する権利を優先、遵守することはできない。

しかしこれらは自然摂理ではないし真理ではない。人間が愚かであることの事実結果である(資本主義による万人が蛮人の敵になる経済関係、弱肉強食の社会制度、その習慣と風習)。

そのような原理と共通する問題があるのが死刑問題である。

死刑存続論は非人間性の実情況の救いがたい事実の一つであり、許されるべきではない。
これは自然の摂理の法則とはまったく異なるし、しかも世界中の国の法とも全く別で、死刑を自国だけの法で正当化しているだけの、野蛮な法(価値)判断によって正当化したマヤカシである。

死刑を許容する国、国民、個人の、それも人間の愚かさと動物的、非人間的残虐さが残っていることを示している、実証的事実である。

その他の人間と現在社会(世界)に非人間性があるという、実情況の救いがたい事実(*2)は許されるべきではない。これも人間の愚かさと動物的、非人間的残虐さがのこっている事実を示すものである。
(*2 戦争や様々な野蛮行為=搾取、貧困、核兵器の開発保持威嚇、企業利益獲得のための止め処ない自然破壊、社会的弱者子ども・神身障害者・女・高齢者・被社会差別者など、歴史上にあった大量殺戮、奴隷制など)

このような錯誤の人間とその社会現象の結果、殺人事件を起こし、病理的猟奇的犯罪なども起こることになっている。

つまり犯罪を犯す方も死刑を望む方も、人間の真実の姿を知らず、錯誤の人間社会に生きてきているが故の結果としてある姿なのだ。

こうして殺人被害者遺族が持つ極刑(死刑)を望む感情や意識を持ち社会に望むことは、人間性に反する非人間性として許さないことが当然なのである。

が、しかしそれは個人的感情とその信条や思想てしては正当なのだだが、その個人は同時に社会的存在でもあり人の誰もが社会なくして生きることもできない存在であるため、個人の報復意識による死刑(私刑も同じ)を許していたら、社会としての安定性と、人間主義などの近代主義は仮想化(*3)してしまう。
(*3 建前と本音の原理で、法やルールは建前化して内実を失いい、本音では犯罪行為や勝手放題を許し、前近代的野蛮的な状態を黙認する社会となる。法があっても発効せず、条文という活字があるだけという仮定化の状態)

こうして死刑と死刑制度はゆるされないのである。

自死自殺幇助などのことは、以上を自覚するものは自死自殺幇助をしてはならないが、真実の人間の姿のように生きられない現実社会条件では、止むを得ず認めざるをえない。

これが真実と事実の階梯である。その上の階梯に真理がある。

このような正しい世界観が、仏陀、キリスト、マホメッドヘーゲルマルクスエンゲルス、レーニンなどが示した真理である。

  

  2018.5.12