ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

哲学ってどうよ?。

     哲学って結局何の役に立つの?。




説明としては導入部のないいきなりの話となりますが、短い文章で哲学を学ぶ理由を説明するための方便ですので我慢して読み始めてください。

読みすすめるうちに哲学と言うものがどういうものかも、おおよそ理解できることと思います。

哲学の根本問題とは=人間が思考したり意識することがができるのは何故か?どんな原理があるのか?といった問題です。


    哲学はここからはじまります。

物があるから人間が意識できたり考えることもできるのだ。というのが唯物論哲学と言います。

いいや、人間は意識するということができるから、物の存在を知ることができるのだ。とするのが観念論哲学といいます。

つまりこれは哲学を学ぶ皆さんが哲学についてアレコレ言っているうちの根本的な問題なのです。

それは、例えば君や若者たちや小学生が、どのように認識して、物事を学び、勉強できるようになるのか?(こういう問題では教育学の根本問題でもあるし、育児の根本問題でもある)という問題なのです。

だから哲学は「人間が何か知ろう(認識)とする」場合の、つまり世界の物事を知ろうとする時の学問の中の学問であり、「すべての学問(万学)の王だ」という言葉も産まれることにもなりました。

哲学はギリシャ発祥でヨーロッパ育ちの学問ですから、哲学が「すべての学問(意識や認識活動や理性、智識活動)の王」と言われては黙っている訳にはいかないのがヨーロッパ世界のキリスト教界です。

彼らは「万物の王は神であり学問は王の従者だ」ということにしなければなりませんでした。

これに対して哲学者や他の学問の学者たちは「宗教は王(政治)の妾だ」と批判(実際すべての国の政治が宗教の権威を利用して農民や市民、国民を従わせています。)しました。

やがて中世キリスト教界は聖書の教えなどに反する者を、宗教裁判などで弾圧することになり、彼ら哲学者や他の学者たちも口をつぐむことになりました。

そのようにして人間の認識活動(学問や理性)が徐々に眠り込まされるようになって、さらに王や他の国やいつの時代の為政者も、国民に対すして「愚民政策」をとり「由らしむべし知らしむべからず」という原理によって民衆や国民をなるべく無知な状態におき、かつ教会が教え導く通りに労働に勤しむようにさせていました。

このように人間の理性と万学は、おおよそ14世紀ルネッサンス初期(初期資本主義の始まり)ぐらいまで、発展できなくされてしまいました。


      理性や知性や学問の危機

理性や知性や学問というものは、それによって発見や発明がなされ、さらにそこから機械が作られたり化学製品が作られて、さらにそこから利益が生み出される源となるものです。

ですから資本主義にとって自然科学の発達は、利潤に結びつきますのでこれを認め応援することになりました。

その一方、社会学はさほど利潤には結びつかないモノだったから、必要以上には応援しませんでした。

こうして歴史が進んできて、現代社会では物理学を始め化学などの自然科学系は大きく進歩することになりましたが、教育学~政経・法・哲学などは頭打ちに(発展できなく)されてきているのです。(のちに金融経済学や数量経済学などは支援されるようになります。)

資本主義にとっては労働者や国民が政経・法・哲学など知るようになってもなんの得にもなりませんし、むしろ抗弁したり反抗するための知識(意識)にもなりかねません。


     唯物論と観念論のたたかい

さて話は一転して、物があるから人間が意識できたり考えることもできるのだという唯物論哲学は物質を第一義的・積極的に捉えるので、そこから発見や発明を促したりしますし、さらにそこからの経験値や知識などにまとめる学問の力にも結びつきます。

このように唯物論は知性や理性とっても適合性や適法性(理に適った性質や、法則などという時の「法」のこと)があります

それに対して観念論哲学は意識や観念を第一義として物の存在を二義的なものするので、意識や観念によって物が分かるのだから、人の意識次第で物が見えたり知(発見)ることができるのであり、意識しなければ物は無いのも当然という主張をしていて、物自体を注視しないため発見発明を遅らせたり知性や理性などにとって適合法性が劣ることになります。

ですから観念論は宗教の原理と同じで、宗教が神とするものを頭の中(意識や観念)で想定して、その意識を第一義的として神は「居る」とか「有る」と二義的に分かるのだ、という観念論と同質の原理のものなのです。
つまり考えたりする意識があるから、物事が有ることがわかるのだとするものなのです。

こうして唯物論は物質を第一義的とするから物事に気付き、また知ることを促し、人間認識や理性を発達させるよう働きます。

それに反して観念論は宗教が支配していた中世ヨーロッパと同じように、理性の発達を神(観念や意識のありよう)に委ねてしまい、理性の発展を邪魔するものとなり、その歴史期間が永ければ永いほど不合理性を顕在化させて行くことになります。


      現代資本主義国の唯物論と観念論のたたかい

ですから現代資本主義国に生きる我々のほぼ全員が、国家がとる「愚民政策」や「由らしむべし知らしむべからず」の原理と観念論の言説を加えた考え方を刷り込まれて、理性を眠りこまされ、不合理なものを助長したり不条理を受け入れて、知らず知らずよく働く考え方になるようにされています。

哲学の話として換言すれば、多くの国民が利潤を追求する資本主義とその国によって、観念論哲学の影響下に閉じ込めらることになっているのです。

あえて哲学を学ぼうとする者には、哲学などいうものは訳の分かりづらいモノで、それらしい理屈を付けたり、その術を学んだりするモノで、人間の意識では不合理性や不条理性も断定できないのであり、そういうことを知るための学問なのだ、などとされてしまうのです。

とはいっても、哲学も学問なので嘘と分かることは言えないので、現代観念論哲学の中心的問題も「認識論」だということになっています。

しかし物事の原理は様々な哲学(観念論の)理論があり分かりづらいものだ、という結果にされてしまうのです。

観念論の哲学理論は、哲学者個人の観念や意識しだいの理論ですから、自分独自の哲学理論の体系を打建てられた者の分だけ、しかも過去の観念論哲学者の分だけあります。

さらにまだ自身の体系理論を打建てていない「哲学者」教授たちがそれらの理論をミックスして教え広めていて、なんちゃって観念論哲学が無数にある状態になっています。


     観念論の大天才ヘーゲル現る

それら観念論哲学の第一人者は真面目な天才であるヘーゲルです。

この偉人は観念論者ですが、あまりにも研究熱心で優れた哲学体系の理論を作ったので、当時ヨーロッパ世界に受け入れら流行していました。

だが難解なため当初はハヤリで持てはやされたのですが徐々に内容が理解されるようになると、王侯貴族たちはへーゲル哲学は事物は変化するという弁証法を再興(古代にあった理論)して、国家も時代も変化していくものだと論証し切っているこを知り、ヘーゲル哲学を打ち消しし始めました。

当時は絶対王政でしたから王制も国家も変わり無くなってしまうと論証されていたのですから、
ヘーゲル哲学がヨーロッパ世界に出回たことに泡食ったわけです。

ヘーゲル自体は王制が終わり次にフランスのような市民国家(資本主義)になると確信して、それが人類の到達点だろう考えていました。

しかし資本主義国家が人類の最終到達社会ではなく、資本主義も「国家も変わるのだ」と証明しているヘーゲルは資本主義国にも嫌われことになりました。

ですが、しかしそれが哲学と言う難解学問であり理解する人自体が少数であること、観念論であること、難解中の難解理論であることなどの理由で無視しつつ、哲学の世界では「哲学者」とされる人の頭の数で「ヘーゲル理論は終わった、古い」と宣伝させ、印象操作で打消し攻撃が行われることになり、現在でも続いているのです。


  唯物論は正しいのか

さて再度話は一転して、君や若い皆さんは、自分が新生児の時からどうやって外界を意識(認識)し始め、学び、身につけ、話し、考え、答えや結論を得られるようになって行ったのでしょう?。

人々が誕生して来たときには産まれて来ようという意識が先にあって、それを自覚してか、なんとなくかは分かりませんが、それで誕生してきたのでしょうか?。

また君や人々は産まれてきてから、なぜ英語やフランス語ではなくて日本語を身に着け、日本語で考え、日本語を使うようになったのでしょうか。

産まれる前に英語やフランス語や日本語など沢山の言語があることを認識(意識)していて、次にその意識をもとにして日本語を選択してから産まれ出てきて、日本語を話せるようになったのでしょうか。

つまり、はたして日本語という「意識」を持つようになってから、初めて日本語を選べるようになって、日本語を選んでから産まれてきたのでしょうか。

さらに今現在も「自分とは何か」「自分らしく働ける職業や職種は」「自分に向いた就職先は」「自分らしく生きるとは」「どう生きるのか」(「何故生きるか」は観念論哲学の「生の哲学」からの出題)という問題(悩み・出題・提起)などを、どうやって知り(意識や認識ができ)、考えるように、なったのでしょうか。

君が産まれる前から意識していたのでしょうか。

まとめると、つまり哲学とは「人間」にとっての、あるいは「悩み」という問題にとっても、根本的な、現実の、生きた(「どう生きるのか」は唯物論側の「生の哲学」からの出題)テーマであり、そのような問題に答えを導くのが「哲学」なのです。


     歴史が流れ着いた現在の君たちは

残念ながら、君を始め若い人たちのほぼ全員が、生きている現実の人間と、その社会や地球と宇宙とは全く関係していない(*)かのような哲学を学ばされ、あるいはマスコミや先生が出題する「虚構現実」の問題に注目させられる、「とんでも哲学」や「なんちゃって哲学」を身に着けるようにされてしまっているのです。

(*こういう考え方を形而上学といい、その対義語としての弁証法という関係)

君と若い皆さんが本当の(真の)哲学を探し、身につけることを願い期待しています。