ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

島猫 (id:catpower) さんの「本が売れないのを図。。。。。。

「本が売れないのを図書館のせいにしてはいけない」を読んだのがいけなかった。

http://catpower.hatenablog.com/entry/2017/10/21/190000


私はまだハテナの全体機能が分かりませ。使えません。(今日始めて知ったこと、日記とブログは違うんだへー、、何でだ?分からん。)

ハテナ事務局から私への個人メールへ「ブックマーク」なるものの案内が再三送られてくるので、毎回クリックして何度見みても毎回携帯用アプリの宣伝ページに行くだけ。

なので何がブックマークなのか皆目分からず、普通のブックマークとは違うらしいことは理解でき、しかし使い方が分からないので私には関係ない機能だと思っていました。

ところが今日メールに「本が売れないのを図書館のせいにしてはいけない」というブックマーク記事があるというのを見つけて、この題名からして私が考えていることと同じ意見なのではないだろうかと思い、さっそれをクリックして読んでみました。

案の定私と同じ意見だったし、世間では読んだことがない貴重な意見だと思いました。

そこでこのような意見は、本が売れない論、活字離れ論、図書館が原因論、などがありながら、 島猫 (id:catpower) さんの意見のような理論をこれまで見たことも読んだこともがありません。

そこで、その旨一筆書こうとおもってコメント欄に書き入れ始めわけです。

そうして途中まで書いたのですが右下で赤いものが動くので、確認するとなんと100文字制限があることを知りました。

しかも途中まで書いたものが、アップされてしまったのかどうかも分からないし、確認の操作もできずに、へんな文章を送って嫌がらせのように誤解されてもな~と思い、

これを書く羽目になってしまったのです。トホホホホ~。

まあその前に、第一回目に島猫 (id:catpower) さんの意見と論理を読んだときに、上から目線になりますが直感的にこの方は事実を見渡す力がある方で、しかしながらもう一歩シャキッとしないようなものがあるかな~と感じたので、そのことを書いてもいいかとチラ思いもしていたので、これを書く事にしました。

なので本題に入る前に、まずこの百文字議論の形式について、思うところを書かなければならないと思います。


現代人はマスメディア(大衆的大学とその教授だとか教科書もふくめた意味)の世論誘導に巻き込まれて甚だしい錯誤に落ちいり、世界と社会を正常に見られない状態になっているのだろうと思うのです。

しかしその自覚はなく、虚構の世界と社会に生きていることを多くの方がしらないでいるのでしょう。

そうして百文字で何か意見でも言えているかのように錯覚してしまい、同様に錯覚している方たちが「議論」しているつもりで、論争に明け暮れる状態になっているのではないでしょうか。

そのことを知っている私はいつもなら、そのような形式の「話し合い」を避けて通ることにしています。

(この点についても話ができているかのように錯誤している人々は、話と話し合いが『不可分な意味を持つ』ということも考えたことがないのではないでしょうか。)

何故そういえるかを言語学や論理学的に説明していると本題に行く前に疲れてしまうので、本題の方で類推できる程度に含意させてみたいと思います。

さて、「図書館が新書を貸し出すから本が売れない」などという議論があるのですが、ここでも現代人が物事が見えていないのに、自分はわかったツモリでいるからこういう意見になるのだろうと思うのです。

社会を正眼で見ている者は、それを言う知識人や文化人に対して「ホウホウ、やってるヤッテル」と思って呆れていることでしょう。

そこにある問題はおおよそ2点。

1、の問題

学問としての現代の図書館学が、錯誤理論で成り立っていることが本質的な問題としてあるのだろうと思います。

本来の図書館の目的は、人類の知の集積と保存、維持、流布のためにあるのであって、出版社が作りたい放題、売りたい放題の新刊本や、週刊誌などを買い、集め、貸出することは、その本旨から離れ国民迎合のサービスをやっているのだといえるでしょう。

だから、本来は各地方自治体の都道府県や市区町村の中央図書館が、民衆史的資料して多様な雑誌を蒐集しておけば事足りるはずなのです。

勿論裁判などでも週刊誌記事が問題になることもあるので、貸出し分も購入しておかなければならないのでしょう。

こうするなら雑誌の類を僅かしか買わないですむし、貸出しについても仕事で必要な者だけに貸すなどと制限して、本が傷まないようしていたら少ない部数しか買わないのですから、出版社は文句がないのでしょう?。

が、そうなれば現行のように全国の自自体がもつ何千の?何万?何十万?もの図書館が買わなくなるのですから、それらの出版会社は一辺に潰れることになるでしょう。

そこに大学や高校などの図書館や役所の待合室などで買っている分も加えると、決して大げさではないことが理解してもらえるでしょう。

その一方、現行の図書館は、基本的な学術書や古い貴重本に金をかけられず、また現代モノでも「生きている」価値ある書籍を置いていない状態だったり、書庫にもないという状態になっていると思うのです。

全集物なども中央図書館にもない。「国立国会図書館に二部だけありますが、貴重本なので貸し出せません。」などということにもなってしまうのでしょう。

大学図書館でもそんな形骸化が始まって久しいのですから、唖然とする知識状態の社会になっているのでしょう。

こうして本来の図書館とその知識の集積が疎かになって、またそうになっていても平気な社会になってもいるのでしょう。

また私たちはそのような知的水準の社会に生きているのだと、いえるわけです。

つまり虚構の社会に生きていることになっているのでしょう。


図書館という一例だけで、そこまで言うのは問題があるだろう、とか、決めつけだ、などという非難も聞こえて来そうです。

だがそれも虚構の社会に生きているからそう思い、考え違いを起こしているのです。

歴史的に積み上がった(諸々の時空にあった社会)の智というものを知らず、さらにそれらとの時空を超えた語らい(話し合い)と、その喜びを知らず、それらの教えを知らず、反省を知らず、人というものとありとあらゆる社会と世界を知らないから、そう言えるのだと思うのです。

そこに示されているものが、本当の正眼で見える社会なのだと思うのです。

少し脇道に入るようですが、

話が切り替わり突然何を言おうとしてるのか分かりづらいでしょうが、多くの方たちはきっと自分は社会というものを知っていると思っていることでしょう。

そこでこれから私が多くの方たちは、本当の社会を知らないのだということを、論証してみることにしましょう。

人は誰でも多くの時間を仕事をして、その間は手先しか見てないことでしよう。

さらに人というモノ(該当ブログにコメントを載せている方たちも)は前しか見えないでいるものです。

後ろに振り返っても、いままで後ろだったものが前になり、結果やっぱり前しか見ていないのです。

ここに嘘があるでしょうか。鏡がある。カメラがある、、、、見られると反論するでしょう。

そこで次に、人というものは一日の行動範囲しか見えていないし、見ていないのではないでしょうかと問いたいと思うのです。

そう言われれば、誰でも一日分の移動しかしていないので、これも嘘がないでしょう。

こうして鏡があっても、カメラがあっても、ビデオがあったとしても、手先と、前と、一日のわずかな時間と行動範囲をそれらの機器で見て、1日の全部を見たかのような、かつ知っているつもりになっているのではないでしょうか。

何を見て自分は社会というものを知っている、と言っているでしょうか。

さらに多くの方たちが社会と呼んでいるもののうち、自分が一日で見たり経験したり、さらにそこから得た知識を、そういうものを社会の一部だと考えてみましょう。

そうして、新聞だとかに掲載されている1日分の様々な記事になっている物事も、社会の一部だとしましょう。

さらに、学問としての社会の姿を捉えるための経済学や法学や政治学や文化芸術学等などの社会の諸側面を分業して捉えようとしたものも、社会の姿の一部だとしましょう。

さらに宇宙と地球がなければ社会もなにも成立しないのですから、社会というものを見る上でもそれら自然や世界を無視はできないことですから、そのことも社会という姿に不可分なものとしましょう。

さらに歴史学的にも、過去と未来をみて、その二つを突き合わせて現在が見え、そうして社会や世界というものが見えてくるのですから、そのことも社会なるものの姿だとしましょう。

その他も言語や情報だとかありますが、縷々上げて説明しなくてもいいでしょうから結論を言えば。

多くの方たちが見ている「社会」なるものは、はたしてどのようなものでしょうか。

自身で考えて見るといいと思うのですがどうでしょうか。

私の言い方からすると、多くの方たちが社会だとしているもの、その中で自分は生きているの、自分の人生だ、等などとしているものは虚構ではないでしょうか。

日々の新聞やテレビなどに示されているものと、ある人が一日で動いた行動範囲を、社会の姿だと錯覚してはいないでしょうか。

じゃ、キ様はそれら全部を知っているとでも言うのか。自惚れるのも大概にしろ。

上から目線で教えを垂れつもりになりやがって、図ずうしいのにも限度があるだろう。と非難することでしょう。

まあそう言われることは事実なので、また真実なので、私も虚構を見ているかも知れないと素直に認めましょう。

が、しかし多くの方たちはやっぱり虚構世界をみていることには間違いないでしょが、私は社会を正眼で見ているし、人と社会をしっかりと見ているし、それを分かっています。

なぜなら、ヒト(人類)は個人では何も見えないのです。正しく外界を捉えられないモノなのです。

多くの方たちと私を分ける違いは、そのことを知り自覚しているか、そうでないかという点の違いなのです。

そのことも後に証明することにして。

今は過去の人がそのことをどう言っていたか、私たちに教えたのか、その一言について話させてください。

それは「無知の智」という言葉であり、それをここで示して置きたいと思います。

だから私も、私個人では、社会も人も、自分自身が何ものかも、知ることはできないのです。

そのように自分が全くの無知であることを完全に理解している。それを知っているということなのです。

これを知っているか知らないかの、さらに自覚があるかないかの、そのことが決定的な分岐点になるのです。

これを知っている者は正眼で社会と世界を見ることができるのです。

これが過去の哲人が教える「無知の智」の意味なのです。自分がどれ程(完全に)無知なのかを知るということなのです。

人、個人では何も見えないから、人々は手分けして自分が見て知ったことを情報として出し、それを学者という者に集め、そうして集積した経験と知識をもって、全体(世界)を見られるようにしているのです。

そうして経験と知識が人類史として積み上がって、その正眼の透明度を徐々に上げてきたのが、人類史であり、学術的な智なのです。

さらにそういった人類の智の遺産で、世界を正眼で見ることができるようになっているわけです。

さてそこで、図書館の本質は、そのようにして正眼で世界を見られるように、過去の人々が書物にして、現在人と、未来人のために、残した知識(経験も)の遺産を、集め、保存、維持、伝え、広めるためにあるのです。

そのような役割を持ち、その責任を果たす、専門的場は図書館以外にあるでしょうか。

おそらく無いでしょう。

日々でる新聞、毎週出る週刊誌、月刊誌、年鑑、芸能人や底の浅い知識人や学者が出す書籍が、どれほどの意味(図書館が持っている本質的性質や目標などから比べて見て)があるのでしょうか。

雜誌の類も民俗学的民衆史としての蒐集には意味があるでしょうが、市民サービスのためにそこに費用や人員を費やして多部数購入、貸し出すことは、ほどほどにしなければならないのです。

こういう「程々にしなければ」なども、私が皆さんから非常識だとか嫌われたくないために、そのように言っているのですが、そのような物言いは実は嘘なのです。

図書館は人々に有益な情報と正眼を持ってもらうための機関であって、社会現象を自分勝手な意見で書き留めたり、さらに人間現象を観念的決め付けで書き留めた読み物を、市民や国民に広めるためにあるモノではないからです。

そのような錯誤の図書館活動は、虚構世界に市民と国民を引き込む活動をしていることになってしまうでしょう。

職員本人たちはその気はないし、うえのような「知」というものそのもの、その知の集積と、歴史上の意義・責任などの自覚もないことでしょうから、図書館員たちがやっていることは人を虚構の世界に引き込み、人の命を疎かにすることなのだと言ったとしても、本当は間違いではないのです。

しかしそれだけを言えば、現状では「この非常識ジジイとか、クレーマーだ」とか恨まれるだけでしょうから、その本質を指摘しても仕方がなく、「多部数購入して貸し出すことは、ほどほどにしなければならない」でしょうと言っているわけです。

やっとここまでの長さで、人と社会と知と図書館というものなどの正常な姿を説明するところまできました。

2、の問題。

次に価値ある書籍と価値ない書籍、好き嫌いのレベルの書籍と、面白いつまらないというレベルの書籍などと言う場合の、問題(テーマ)についての話に移りましょう。

本を読む楽しみを知らない人が「どうでもいい本がある」とか言うのは間違いだ。

あるいは良い本だとか悪い本だとかを決める価値判断は人それぞれだから、悪い本だとか言うのは決め付けだろう。

さらに、良い悪いを言うことは、押し付けになる、などとする意見もあります。

そのような主張をしたり考え方をしている人々に対しても言いって置きたいことは、ここでも貴方がたは錯誤した虚構の世界に生きているからそのような意見になっているのではないでしょうか、ということです。

知を集積した書籍の歴史的意味と価値については、これまで説明したのでくりかえしません。

しかし、このような意味内容を換言すれば、それらは「価値判断の重要な一つ」でもあるということです。

人々の虚夢から目を覚ませるという重要な意味内容を持っている書物を、「面白い」と表現する人も居るだろうし、芸能人の「今だから明かす~」とかの本の方が面白いという人もいるでしょう。

さらに科学的な本を読んで知らないことが沢山あって勉強になったという人もいるし、オカルト神秘主義の本を読んで、様々な問題や現象は不思議なものだと知ったとか、

科学とかで全部理解しょうだとか、理解できるなどと思い上がっている方が人間の傲慢だ、どん詰まりのところでは全てのことが分からないのだ(不可知論という)、

だからそんなことは考えないで面白可笑しく暮らせればそれでいいのだ(刹那主義)、それで人生を送れたら文句あるまい。(諦観主義)などという価値観もあるでしょう。

そのような様々な価値観で物事(ここでの話では本のこと)を判断するするときの定規として、それを価値基準とも言い、全ての人がこれら様々な価値基準で本などの選定(人生で進む道を選ぶ時も)をしていわけです。

このような価値観とか価値基準というものは、固定的なものとしてあるのではなく、高低の違いもあり遠近の違いもある。きれい汚い(衛生的な意味)もある。熱い冷たいもある。

深浅広遠、不道徳道徳的などという高度な意識(道徳観や倫理観)基準もある。有利不利、信義誠実、非理曲直などなど様々な価値観があります。

ようはこれらの価値観や価値基準には高低や低俗・高貴のなど等の違いがあるのは事実だということです。

分かりやすく言えば、人が最初に覚える価値観と価値基準は、「好き嫌い」のそれで、幼児が生まれてから第一番に身に付ける価値観です。

そこから自分の身の回りに関係する価値観(アレとかソレの遠近)とか、先ほどの生活にまつわる様々な価値観へと「発展」し、抽象的な善悪や道徳観や倫理観、法的価値判断などといった価値観をもつように発展していのでしょう。

そうして発展して行き着くところが「普遍的価値」「普遍的価値基準」ということになるわけです。

日本の憲法でも人権や自由、幸せ希求権など「人類普遍の原理であり何人もこれを侵しては、、、侵すことはできない、、」だったか、、、とあるのがそれです。

ですから、このような価値観と価値基準で本の善し悪しを判断することは可能なのです。

ただ価値観というものが様々な種類があり、それらが発展するものとしてあることを知らないで、自分が持つ主観的な価値観(自分だけがそう感じている面白いつまらないとかの)を唯一の価値基準にしている人々には、

その価値観や価値判断が発展することは知りようがないし、知らないのだから、つまらない本がいかに多いかも知ることができないわけです。

結局は虚構世界で生きていることを自覚なく知らない者と、それを知り正眼で世界を見て知っている者とでは

「ヒト」と「社会」から「知・本」「価値基準」などなどという言葉の意味がまったく違うのです、「面白とは」「美とは」といった話は噛み合わないのしょう。



時に、岸信介という年寄りの総理大臣が、「俺はそういうのは大ッ嫌いなんだよ」いうのを聞いて、私が少年時分のことながらアングリして口が閉まらなくなった時がありました。

最近では安倍首相がおなじように「好き嫌い」を言っていたことを思い出しました。

このような人々は、きっと自己主義、自己中心主義、主観主義の価値観で生きてきて、自己中が中心の価値基準になっているのでしょう。

そのような自己中の価値基準の上に、好き嫌いの価値判断が重なってあり、さらにその上に様々な価値観(道徳的だとか政治的な)が積み重なってあるのでしょう。

だからきっと客観主義とか普遍的価値(憲法で示す価値観と価値判断)、その基準ということは理解できないだろうし、理解していないことでしょう。