ainomiya999’s blog

なるべく時の話題について話せたらとおもっています。

 真実と真理なるもの

真と偽(真実と虚偽・まことと嘘)につい

一般に真理や真実と言うと、イメージとしては小さいビー玉か鉄球のような丸い個体のようなイメージで捉えられているのではないだろうか。

私が進言したいイメージは、風船のように膨らんでいき地球大の大きさのものをイメージしていて、その方が他の人たちも理解しやすいのではないかと思われます。

真理というのは人間とその対外的にある人間集団および社会や国、世界、自然、宇宙(それら人間から宇宙までを「世界」や「物」と言う)を共通し包摂する共通原理だと言えるだろう。真理とはそういう広がりを持ったモノだ。さらにまたそれら巨大体を纏め続ける原理としてある核は知れば知るほど鉄球のように小さいものだ。
真理の中身はあらゆる真実の連鎖としてある。真実は人類経験(失敗と成功の、言葉に転換できない認識《体感など》も)と時代と学問が発展する度合いで数を増しまた多様性を増し真理体(風船状)を大きくさせていく。

偽や嘘はそれら真理や真実と対立し、その成長発展を阻むモノをいう。
そのモノとは言葉・説・論・像・意識・行為・活動・運動などのこと。

よって真と偽を見極めようとする行為は、学を進める本源的なテーマとなっている。それは哲学そのモノが人間と「世界」や「物」などの中心原理を探求する上では本源的な要素であり、他の学問が発生する遥か以前から存在することになった。この関係を無視して哲学は存在しないし、哲学なくして人類が真理を獲得することはできない。

言葉を換えれば、人間そのものを考える(考察)するときに必ず付随している諸要素(世界と哲学)でもある。したがって人間がなんらかの悩みや、真偽といったことを考えるときにも、必ず哲学を知った上で考察しなければ解答は得られないと言える。

もう一度言っておく。人間がなんらかの悩みや、真偽といったことを考えるときにも、必ず哲学を知った上で考察しなければ解答は得られない。

人々に何度これを言っても理解できない人が多いので、はっきり言うと哲学を知らずに個人が思考し意識活動しても無駄だということだ。

哲学を知らないそれ自体が偽なのだ。つまり人々が話し合っているその話自体が嘘であり嘘のつきをやり合っているのです。

だから、哲学者は古代からこのテーマを考察し続けて、現代の哲学も、また他の学問もこのことを考察し続けている。

当然なこと哲学が研究探求され歴史的にその成果が積み上がって、考察の深化があり、解明されてきた歴史でもある。それが影響している分だけ、現実世界(現実の、今の、真理世界)に普及して、人々の話し合いの真実性が保証されている。したがって哲学を知らない人もその影響下の度合いの範囲で価値ある話し合いと意識活動(思考・恣意・悩み・苦悩などの活動)が成立している。

例えば、差別意識や優越意識でいうのではないが現代世界がまだ知らぬ南米奥地の原住民民族と話し合ったとして、彼らが「自分たちは神が作った人間で、自分たちだけが人間であって、他の人間みたいな生き物は人間ではない」と言ったとして、貴方はそれを信じはしないだろうが、原住民のうちでそれを未知だった人はそれを聞いて信じるだろう。

そのとき嘘(一般的な)が成立している。だがその新しい知識(嘘)を得た者は喜ぶことになるだろう(この時点では個人(個別的)に嘘は成立していない)。

アメリカの州か市で、子どもの教科書に「神が人間を創造した。天地を創造した。」として教えているそうだ。
このようなことを人々は「宗教の違い」「考え方の違い」と捉えるだろうが、哲学は「偽」「嘘」と捉える。これから時代がさらに進むと、人々がその「宗教と考え方の違い」自体も「偽、嘘」と言う時がくるだろうが、哲学は現代でも偽、嘘と捉えていのだが、それを殊更いうことはしない。あまりにも明白だからだ。

こういった意味で哲学(他の学問も)が歴史的に研究探求した成果が積み上がって、それが世界(現実の、今の、)に影響し普及している分だけ、人々の話し合いの真実性が保証されている。


その哲学テーマの深化の現代到達点は、基本的には世界の関係性はほぼ解明されて、他の学問進歩の発展を待って、その諸学問が発明発見した新し哲学的命題が出題されない限り、現代哲学の加筆や変更をすることことはない、そういう段階まで来ている。

もちろん現在社会一般には、「哲学」は混迷状態という姿をとっているので、上のような解明と結論については、百論憤出で見解はまとまっていない。

つまり百論憤出状態を作り持続保存しておけば、哲学の歴史的深化の現代的到達点は曖昧にされ続けられる。

よって人間の姿(人間と世界の関係)は、「未解明」のままという状態となり、18世紀以前~古代まで解明された諸点のうちの、各個人哲学者の信じる点のみの部分的人間像となっている。

分かり易く言えば人間像は未解明のままの状態である。表面上は。あるいは古代より常識化されたものさえ混迷させられている。つまり人々がそれを信じている範囲と度合いの分だけ、人間像は曖昧なままとなっていて、人間は神が創造したと真顔で信じている人もまだいる。
そのような度合いの解明の時代であるし未文明の時代でもある。

したがって、題名が示す問題として、確認するべきは、哲学を学ばずに真偽(嘘とマコト)を考えたり論じたり、一般的に「話し合」っても大した意味はなく、答えは出ようもないしその解答の正誤も判別できない。
もちろんこの問題について表層的な問題の一部や中層の一部の問題にカスったり触れたりすることはあるだろが、その結論は正解答にはなりえない。

はっきり言えば、哲学の初歩的知識がなければ、人(個人でも)の様々な考えや、悩みごとも、話し合いも、意味をなさない。

このうえ何故かという説明することは膨大な文章を書かなければならないので、ここの範囲では上から再度読んでもらうしかない。

が、悩み深く発狂や死の淵に居る方もあるかもしれないので、哲学を学ぶよう進言すると同時に命辞的に言えば、全ての命題(あらゆる学問と悩み)の答えの原理が、「だから実際的にかくある」のだということになるということです。

それが本当の答え(真実・真理)だということです。

昔から言われている言葉で言えば、「然り、然り。」ということですし、哲学的言葉では「当為」ということです。これらはどういう意味かを応えようとすれば、上から再度読んでほしいとしか言いようがありません。


相談者の方へ 

哲学を知らずに人や物事の表面や裏面(それが秘部や恥部であっても)を見て真偽を正常判断できたつもりにになって、断定しても、その人の真の姿を捉えることはできないのです。

私やあなた自体が歪んだ鏡だったとしたら、それ以外の像(ましてや正像・真像)は得られず焦べないのです。

真理を獲得した者は、現代が虚像世界であることを知っていますし虚飾界・畜生界であることを知っているのですが、いくら真理を獲得したとはいえその畜生界に生きざるをえないのですし、そのような人では無い人(上で未開人が言ってたのは真実なのです。人で無し、ヒトデナシ)を一人でも、少しでも前に(人間らしい方向へ)進めるよう手助け(おおよそ全ての人がそういうふうに助け合い生きているのです。)しなければならないのです。それをしなければ人で無しなのですから。虎穴に入らずんば虎子を得ずということが起きているし起きるし起こさなければならないのです。


参考
見比べるということについて。http://ainomiya999.hatenablog.com/entry/2018/09/16/195309